動機と目的
 
 
キリストは
人の悲しみを分かっておられた
 
キリストは
公生涯よりも前に既に
多くの悲しみを見てこられたのだろう
 
貧困、犯罪、戦争、権威の横暴、
そして戒律がもたらす悲劇、
救いから遠ざけられた人々、
それをもたらし
それを少しも救えない律法の腐敗、
温もりを持たないパリサイ人や祭司、
罪を犯さなければ生きてゆけない人々、
汚い言葉、差別、偽善、
 
戒律を文字通り守ることが
救いにつながっていない
 
本当に救いが必要な人が
救われていないばかりか
汚れたものとして扱われる
 
どこに信仰の救いがあるのか
 
因習となり
修正されることのない律法は
人を縛っているだけで
病める人々を癒やすどころではなく
罪のレッテルを貼りつけて追放し
見捨てることしかしていない
 
神聖の心に従う代わりに
神聖を侵して教条で決めつけて
身勝手に讃美する者たちと
キリストは剣を用いず闘った
 
信仰を教条の奴隷にしないために
キリストは御自らを
教条に満たされた者たちに渡し
彼らの暴虐に任された
それは彼らの仇となり
よって彼らの暴虐が
私たちの仇となるためであり
神に裁きをゆだねることによって
私たちが剣を取ることのないためである
 
 
神聖を理解することは出来ない
ゆえに神聖を語ることは出来ない
しかし
神聖への願いを語ることは出来る
それは祈りだからだ
 
私たちは福音伝道のために
祈りを語るべきである
今悲しむものが幸いであるなら
祈りには、その経験があり、
その願いがあるからだ
 
 

 
私は結論のように強く語ることもありますが
それは今のところ反論がなく
よって修正の機会がないので
暫定的な結論になっているに過ぎません。
 
だから受け取って
さらに考えてくださることを前提としています。
私の信仰についての言論は結論ではなく
自分で考えていただければという願いです。
 
だからどうか
分かるところだけを受け取ってください。
感じるところだけを心にとめてください。
分からないところや感じないところを
無理に受け取らないでください。
疑問があれば一緒に考えてゆきましょう。
 
 
(2018年05月24日)
 
御自ら(おんみずから)
暴虐(ぼうぎゃく)
 
 
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