完全欲
 
 
欲と書いたが
ここでは
邪悪な欲望という意味よりも
意識するとしないとにかかわらず
個人の欲するところの傾向として
善かれ悪しかれ有るものとして考える。
 
信仰については
罪にも恵みにも関わってくる問題である。
 
キリスト者は
神という完全なる御方に関わっている。
それで
信仰に完全を求めやすい。
憧れているからだ。
 
憧れていることは一つの傾向を生み
神の完全が当たり前になって
不全の人に対する配慮に気づかないことがある。
 
神という御方には秘密が多い。
言ってしまえば
人間は神を理解することは出来ない
と私は思っている。
 
人間が理解できるのは
神と人の共通するところ
すなわち
キリストの人格だと思う。
 
しかしながら
完全なる神の
しもべであるという自覚から
傾向として
完全のほうを見ている人が多い。
 
私たちは・・と振り返れば
私たちに完全は当てはまらない。
私たちは不完全なまま生きて
救ってくださる御方を慕っている。
 
完全なる神の
しもべに相応しい自覚は
不完全の自覚である。
 
私たちは不完全を見るべきだ。
 
不完全を目指すのではない。
不完全である自覚のほうを
もっと見るべきだと思う。
 
神は完全であり
神の肯定は全肯定である。
 
しかしながら
私たちは不完全であり
私たちの肯定は部分肯定が多い。
というより
私たちの言葉の肯定文で表されることには
考えてみると全肯定はむしろ少ない。
 
だから
肯定=全肯定が当たり前になってはいけない。
 
すぱすぱっと
肯定文を並べているときには
そんなに肯定していいのか
ということを考えてほしいと思う。
 
部分肯定とは
場合によって当てはまらないことがある
ということ。
 
不完全ということは
私たちの罪の性質にも深く関わることで
私たちは断定的な言い方としては
せいぜい部分肯定か部分否定され
せいぜい部分肯定か部分否定する立場である。
私たちは「と思う」に過ぎない存在である。
 
その性質の自覚を
神によって憐れまれて
赦され義とされるのが信仰の救いである。
 
受けるときも発するときも
断定表現には気を付けたほうがよい。
当てはまらない場合があって気づかなければ
そこに無理な圧力を加えることになる。
 
論理の話はめんどくさいけれど
全肯定の否定は
全否定ではなく部分否定である。
 
神は完全である。
人は完全ではない。
 
人は不完全を忘れてはいけない。
 
そこに救いが必要な理由があり
とても大切な
救われる根拠もあるからだ。
 
ただ
白の否定を黒にしないように。
 
そこに白でもなく黒でもなく
目立たない灰色の
私たちの憧れの原初があるからだ。
 
 
(2018年05月25日、同日一部修正)
 
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