主の道
 
 
キリストが
驚くべき救いの業を成し遂げるだけの
超常奇跡だけの主であるなら
 
その主を信じるだけで救われるという信仰は
何の弁えも生まないことになるだろう。
 
人は超常の奇跡を見習うことなど出来ないからだ。
 
つまり信じますと告白したときから
必ず救われる未来が待っていることになり
 
人はせいぜい
悪いことはしないほうがよいだろう
という自分の善悪の基準を生きることになるだろう。
 
あるいは
道徳的な心得だけではなく
聖書の教えを守らねばと思い始めると
信仰を戒律に変え始める項の硬い者になるだろう。
 
実際
信仰義認と行為義認は
キリスト者の中で揺れていることが多い。
 
信じるだけでと説きながら
いや守るべきはこれこれ・・と
いやこのことは守らないといけないことで・・
というように揺れている。
 
こういう不安定さは
救いが人知の及ばない奇跡を中心に語られることの弊害である。
 
人知で実感し共感できる奇跡に注目するべきである。
 
キリストの超常の奇跡を中心にするのではなく
キリストの魂の奇跡、
心に起こる奇跡と言ってもよい奇跡を中心にすれば
人は共感をもって
神に仕える人間のお手本もまたキリストである
ということに気づくのが当然であり
そこから
キリストの優れた洞察と資質による共感に
見倣って及ばないとしても
キリストの寛容さとともに
人間的共感に溢れた所を志す道は既に見えているのである。
 
併せて道徳的なことは
全てキリストから出てくるが
共感に溢れた良心の産物であり
しかも
それを完全に守れる人がキリスト以外
いないことも知るはずである。
 
少なくとも
キリストに救われた人々は
超常でもなく優秀でもなく有能でもなく
キリストの理解者でもなかったのだから
 
小さい正直さだけをもってキリストに会い
飾らず率直に祈る内容が誤解であっても
その罪人の自覚だけを見られるところの
キリストの愛と寛容によって赦され癒され救われたい
という自分に気づくはずである。
 
信仰は
超常の奇跡だけではない。
言葉の暗記だけでもない。
信条の順守だけでもない。
これらは救いの要件ではない。
 
信仰は
超常は分からず暗記も順守も出来ない人間が
罪深き我が身と心を
正直に神の前に捧げて
戒めと懲らしめの神を恐れる弁えをもって
すなわち
神の下に小さく
キリストの下に安らぎを求める罪人でしかない自らの弁えをもって
祈りを捧げること以外にはない
と知るはずなのである。
 
 
(2018年05月27日、同日一部修正)
 
項(うなじ)
弊害(へいがい)
 
 
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