幸福と不幸
 
 
伝道者によっては
信仰を持つと
こんなに幸福になります
というような
信仰は幸福への道
という伝え方をする人がいます。
 
私はたちは
信仰を与えられて
そんなに幸福でしょうか。
 
今も数々の困難の中で
ただ信仰によって耐え忍んでいる
ということ以上に
信仰を与えられて
どんでん返しのように
今は、とても幸福です、幸せいっぱいです
と言えるような
素敵な心境に変わるでしょうか。
 
信仰を得たのだから
幸福でなければならない
幸福であるに違いない
という強迫観念ではないでしょうか。
 
どんでん返しのように
試練は跡形もなく消えたでしょうか。
 
本当は今も不幸と感じているものを
幸福でなければならないと思い込んで
幸福に言い換えたときから
不祥事があるのに建前だけを主張するような
都合の悪いことを隠蔽するような
神の前に
正直であるべきなのに
不必要で余計なことをしていることになります。
 
以前に比べれば幸福なのに
不幸を感じる心も残っているのは
わがままだと思うなら
その通り
わがままだと思いながら
そのことを正直に祈り告白するべきなのです。
 
どこか神の前に
人間の性(さが)であるかのように
表面を整えようとする姿勢があって
それが信仰の正直を不正直に変えてしまう。
 
キリスト者になったとはいえ
私たちは相変わらず罪深く
折に触れて赦しと癒しを求めて祈るというのに
なぜ幸福だなどと思わなければならないのでしょう。
 
なぜキリスト者だから恵みを受けて
今は幸福なはず
などと思い込まなければならないのでしょう。
 
私たちが罪を犯さなくなり
全身全霊が幸福に包まれるのは
御国に至ってからではないのでしょうか。
 
幸も不幸も
自分がどう感じているかを
正直に祈りとして捧げてください。
 
信仰だからと無根拠に
幸福の道だけを説くことはしないでください。
この地上の大方は耐え忍ぶことで
凌ぐ道であります。
 
徒に幸福の道ばかりを説いて
それでも不幸を感じている心を
贅沢だと戒めるかのように
幸福の言葉で糊塗しないでください。
 
祈りが立派であるかどうかは
神のみが判断することです。
人が正直以上に作ってはいけません。
 
求道者から信仰者になることで
私たちが与えられたのは
不変の平安の悟りの境地ではありません。
 
私たちが与えられたのは
神の前に総てを包み隠すことなく捧げて
地上で成長してゆく道なのです。
 
恵みを先取りしたような幸福の前提も
思い込みのような不幸の前提も
信仰にはないのです。
 
神の前に祈りが正直であるためには
自分に正直であることが必要です。
 
私たち信仰者に与えられた信仰は
傷つきやすく転びやすい私たちが
様々な刺激に対して活性を持ち
より人間らしく新たに成長してゆく道です。
 
人間は
悲しみを悲しみ
喜びを喜ぶ生き物として
御心によって養われています。
 
信仰の恵みは
悲しみがなくなり
ずっと喜びだけになることではありません。
何故なら
最も大きな喜びは
何が訪れたときにも
悲しみを克服することだからです。
 
信仰は人間として
この地上の悲しみを超克してゆく道です。
そのお手本はまたしてもキリストであります。
 
 
(2018年05月30日)
 
凌ぐ(しのぐ)
徒に(いたずらに)
糊塗(こと)
 
 
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