私たち
 
 
私たちが
神様の何を知っているというのでしょう。
 
私たちにとって
神様は折々に
良きものを与えてくださいます。
 
でも私たちが
神様のために何かをしたとしても
神様のためにしたのだから良いことだ
などと決めつけないでください。
 
私たちが不完全な身でありながらしたこと、
それは神様に見ていただくための捧げものです。
 
本当の良きものは
私たちが持っているのではなく
なお神様とともにあります。
 
神と人とは双方向と書きました。
それは私たちが祈るからです。
 
神様は
私たちの祈りを聞いておられるということです。
 
神様は
人生の成り行きとして私たちを導かれます。
 
その導きの成り行きは
神様が私たちに良きものと判断したものだから
この世的な欲を満たすものとは違います。
 
神の与える良きものは
労苦や苦痛であるかもしれません。
ついには
死であったり殉教であったりするかもしれません。
 
 (箴言、口語訳)13:12
望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、
願いがかなうときは、命の木を得たようだ。
 (箴言13:12、旧約聖書)
 
私たちは
神の導きのために泣くかもしれません。
 
その悲しみは地上では説明されないかもしれません。
 
しかし私たちは
悲しみに同伴してくださる御方を知っています。
 
その御方は
人間の世界の道理などでは
とても納まらない広さと大きさを持ち
かつ誰よりも
人間の悲しみを味わった御方です。
 
私たちは
騒がしき世の巷に
我を忘れて勤しむ日々のうちに知っています。
とても静かで平安で
潤いと温もりに満ちた時と所があることを。
 
つまり私たちが信じるのは
すでに御国を垣間見たからであります。
 
願いが叶うから信じたのではありません。
愛されたと思うから
愛したいと思っているのです。
 
 
(2018年06月04日、同日一部修正)
 
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