(修正あり)
 
  
  アーメンソーメン
 
 
一般の人が
ある時までの私が
キリスト教というと
わけもわからず揶揄するような態度で
アーメンソーメンね
と見ているか見ていたかもしれません。
 
アーメンソーメンに含まれるのは
古くから
映像などに残されたところの
敬虔の言葉にふさわしいとされるところの
クリスマスにテレビなどで放送されるところの
文化的先入観あるいは固定観念
あるいはイメージなのです。
 
いつも微笑を湛え
腰は低く口数少なく
他者を否定せず
感謝と讃美の言葉だけを言うような
敬虔なクリスチャン像です。
それこそが偶像ではないかと思えるほどです。
 
信仰とは信じることではない
と私は書きました。
 
信じるとは
人間が客観的にはあるかどうか分からないものをあると信じ込む
ということではないと言いました。
 
超常の救いの話を聞いて
それをそのまま文句を言わずに信じ込むことは
分からないものをあると信じ込むことであり
それは信仰ではないと思います。
それが信仰ならば、生きるのに
なくてはならぬものは超常ということになり
それこそ、あるとは思えないからです。
 
そこには
この世を含む真実についての
人間が作り上げたところの
救いのイメージがありストーリーがあり
信じてのちはそれを信じ込むことで
人の世界観を
教えられた一つに絞ることになります。
 
それを受け入れた人は
それと違う信仰の話を聞くと蒼ざめるか
辛い顔か憐れむような顔をするのでしょう。
 
なんてことを言うの
とんでもないキリスト様は・・云々と
習い覚えた、あるいは覚えさせられた教条を
述べることになるのでしょう。
 
考えてください。
その人の信仰?というのは
その人の感受と思考を縛るものになっています。
 
私は大いに反対します。
信仰は縛るものではなく
縛るものから解放するものだからです。
 
このような経緯で
ひょっとしたら起こるかもしれないところの
信仰者が信仰者を縛るような
信仰集団にになってほしくないのです。
 
私が本当に伝えたい信仰は
分からないものを分からないと言える信仰です。
 
いったい、いつから
信仰は信徒を
信条で縛るようになったのでしょう。
 
既成概念
先入観
固定観念
これらによって
キリスト信仰が
いかに人の手で扱いやすいものになってきたか
信仰から文化そしてスタイルに堕ちてきたか。
 
いかにも敬虔というスタイルは
無刺激と無思考への逃避です。
それは信仰を知ることではなく
知ることを知らなくなることです。
 
私たちは人間としての感性と知性の躍動を
鋳型の中に嵌め込むことなど出来ません。
日々においても新しくされるであろう信仰を
生涯を通じて固定するのは背教と申し上げます。
 
何故なら
私たち人間は
何かが心に響かなければ
何かの癒しを感じなければ
何かの解放感を味わわなければ
心から信じるということはないからです。
 
さらに何故なら
キリストに救われた人々は
古い教えの因習に縋っていたのでは
自分たちが救われることはない
ということだけは知っていたからです。
 
 
(2018年06月06日、同日一部修正)
 
湛える(たたえる)
絞る(しぼる)
縋る(すがる)
嵌め込む(はめ込む)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]