信仰と言葉
 
 
教理や信条は
信仰そのものではありません。
 
信仰は心にあるもので
目に見える形や位置を持ちません。
 
ある教条主義者は
心のどこを探しても信仰はないと豪語していました。
彼は信仰を神聖化して
心と信仰が別物だと考えていたようです。
 
 彼は盛んに神を讃美しながら
 自分が何をしでかしても
 どんでん返しのような
 奇跡による救いだけを待っていて
 一方では同時に
 読者に見えないところで
 卑怯なことも平気でやるような
 言行不一致の偽善者でした。
 
 この判断は今のところ
 否定する根拠も材料もないままだから
 同じ批判を折に触れて書くことになります。
 
限られた知恵しか持っていない人間には
心の中を神の領域と人の領域に分けて
区別して理解するような
器用なことをする能力はないと思います。
 
言葉は心に働きかけます。
言葉は心を揺さぶって動かします。
 
 しかしときに言葉は
 心に働きかける力を失うこともあります。
 
 聖三位が不変なのは
 変えたり成長したりする必要がないからですが
 
 神聖を表す言葉を聖三位そのものと同様に見なして
 言葉だけを人間が絶対不変としてしまうと
 人間が使うとき生きた言葉が失われ
 同語反復のループとなって活性を失うのです。
 
感動は情緒的な享受だと前に書いたことがありますが
知・情・意は密接に関連しており
感情が高まれば知性も意欲も反応しています。
 
 (今、私が文章を書いているのも、
  質はともかくとして、似たようなものかもしれません。)
 
言葉は心の中と
一対一で対応はしているとは思えないほど不安定で
人によっても
言葉によって引き起こされる心の動きは異なるでしょう。
 
しかし
聖句が切っ掛けとなり
信仰者となり
教理を知っているなら
 
自らの罪と不全に気づいて
成長したい気持ちがあるなら
 
人それぞれに微妙に異なるところの
人間の言葉と心というものは
不安定で可変であるからこそ
異なる人間同士が響き合って
内にも外にも自分を
そして互いを成長させてゆく手段となるのです。
 
 
(2018年06月30日)
 
7月1日まで下書きがあると思っていましたが
勘違いでした。今のところ下書きがありません。
今日中に何か書ければいいけど・・。
 
ループ = 始点と終点の一致する曲線。
 
聖三位(せいさんみ)
享受(きょうじゅ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]