絶対者
西遊記の孫悟空が
觔斗雲(キントウン)に乗って
仏様から逃れたつもりで
辿り着いた柱は仏様の指でした。
私たちが暮らしている地球は
いや私たちが生きている宇宙は
すべての時空は
神様の手のひらなのかもしれません。
神と仏の違いを言っているのではありません。
神について私たちは信じているが
知っているわけではない
ということを前から言ってきました。
仏様についてはなおさらです。
だから違いなど分かるわけがありません。
宗教と信仰を語るときに
どうか思い上がらないでください。
仏教との論争など思わないでください。
分かっているかのような立場と態度で
意地を張らないでください。
言葉に窮した私たちが言うべきことは
キリストの父なる神についても
異教の神仏についても
分かりません・・の一言なのです。
それではいけませんね・・と言われたら、
そうですね・・と答えればよいのです。
それが真実だからです。
私たちキリスト信仰者の
そして私たち人間の立場と能力は
せいぜいそれくらいのものなのです。
(キリスト教の神を)擁護しなければ
などと決して思わないでください。
神は人に擁護される必要のあるような御方ではありません。
神は
私たちが分からないということを既にご存知です
と申し上げます。
それゆえに私たちには救いが必要であり
神は憐れんでキリストを遣わされたのです。
神は、全知全能、絶対、永遠不変、の御方。
その形容の一つさえ私たち人間の手には負えません。
神は、不全、相対、限定、可変、の私たちを造られ、
それゆえに憐れまれるのです。
私たちが自覚するべき身分は明らかでしょう。
不完全であるがゆえに罪を犯す罪人の自覚。
それだけが救いの条件であり
ゆえに慈しみ深き救い主
そしてわが主なるイエス・キリストに頼むのであります。
信仰において考え弁えるべきことは、
異教がどうだとか、
信じなければどうなるとか、
他者のことにこだわるよりは、
自分が神に対して
仏教との論争など思わないでください。
分かっているかのような立場と態度で
意地を張らないでください。
言葉に窮した私たちが言うべきことは
キリストの父なる神についても
異教の神仏についても
分かりません・・の一言なのです。
それではいけませんね・・と言われたら、
そうですね・・と答えればよいのです。
それが真実だからです。
私たちキリスト信仰者の
そして私たち人間の立場と能力は
せいぜいそれくらいのものなのです。
(キリスト教の神を)擁護しなければ
などと決して思わないでください。
神は人に擁護される必要のあるような御方ではありません。
神は
私たちが分からないということを既にご存知です
と申し上げます。
それゆえに私たちには救いが必要であり
神は憐れんでキリストを遣わされたのです。
神は、全知全能、絶対、永遠不変、の御方。
その形容の一つさえ私たち人間の手には負えません。
神は、不全、相対、限定、可変、の私たちを造られ、
それゆえに憐れまれるのです。
私たちが自覚するべき身分は明らかでしょう。
不完全であるがゆえに罪を犯す罪人の自覚。
それだけが救いの条件であり
ゆえに慈しみ深き救い主
そしてわが主なるイエス・キリストに頼むのであります。
信仰において考え弁えるべきことは、
異教がどうだとか、
信じなければどうなるとか、
他者のことにこだわるよりは、
自分が神に対して
人間としての身の程を弁えているかどうかであり、
結局、そのことに尽きるのであります。
(2018年07月01日、同日一部修正)
外が明るくなり始めるころに思いついて
一応書いたのでアップしておきます。
觔斗雲(きんとうん、筋斗雲、金斗雲、斤斗雲)
辿り着く(たどりつく)
擁護する(ようごする)
結局、そのことに尽きるのであります。
(2018年07月01日、同日一部修正)
外が明るくなり始めるころに思いついて
一応書いたのでアップしておきます。
觔斗雲(きんとうん、筋斗雲、金斗雲、斤斗雲)
辿り着く(たどりつく)
擁護する(ようごする)
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