信仰の根拠
 
 
私たちに正しさの常なる根拠はありません。
 
私たちに可能なのは折々の判断の根拠です。
 
神や聖霊を
自分の正しさの根拠にしてはいけません。
 
どちらも超常の御方であり
それを根拠にすることは
超常を知っている
と言い張る傲慢に等しいからです。
 
私たちは
超常の御方を理解など出来ません。
 
私たちは知りもしない超常の絶対や不変を
正しさの根拠にしてはいけません。
 
信仰について、神について、
知っている、分かる、見える、という
ほぼ同じことを意味しているこれらは
人が言ってはいけないことです。
 
キリストだけが
超常から身を下ろして
人間の中で生きてくださったから
私たちは聖書を読んで
キリストを慕うようになり
神と聖霊を信じるようになったのです。
それがキリスト信仰です。
 
私たちに正しさの常なる根拠はありません。
 
また私たちには信仰についても
固定された正しさの常なる根拠はありません。
 
常在根拠はないが
折々の根拠はキリストの愛であり
キリストへの愛であります。
 
それは罪に走って失ったら終わり
というような根拠ではないのです。
 
私たちの罪の性質によって
私たちがときに根拠を失ったと思い
迷うことがあっても
また立ち返ることができるためです。
 
導きの機会に
悔い改めの祈りに
いつでも立ち返ることが出来るように
一度きりで完成するのではなく
私たちが歩みを続けるられるように
道として与えられているのです。
 
何故ならキリストにおいて
その根拠が絶えることはなく
その根拠が忘れ去られることもないからです。
ゆえに絆または縁と呼んでもよいものです。
 
だから私たちは折々を
また一日一日を生きるように諭されています。
 
計画は立てるけれども
うまくいかないからといって
過去や未来の分まで思い煩うことのないように
今日の苦しみがそのまま今日一日の苦しみとして過ぎるように
信仰の根拠は日々新しく与えられてゆくのです。
 
 
(2018年07月02日)
 
折々(おりおり)
慕う(したう)
絆(きずな)
縁(えん、えにし)
諭す(さとす)
思い煩う(おもいわずらう)
 
 
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