いろいろ考えあぐねて、ようやく一つ書きました・・遅れました・・。
 
  
  論理
 
 
論理というものは
生きている人間の
実感を伴って初めて説得力を持ちます。
 
理屈を整えたつもりでも
人間の情緒や生活感からの実感に結びつかなければ
それは聖書で言われるところの
喧しい鐃鉢やシンバルに過ぎないのです。
 
逆に
いかに優しい言葉も
幸福を語る言葉も
生きた人間の現実を離れては
何の意味もないのです。
 
私たちが目指す福音伝道は
一方で整合性が問われ
一方で共感性が問われているのです。
 
キリストの言葉は
当時の生活者の実感に溢れています。
 
何故そのキリストの言葉を
奇跡や神の計画や贖罪といったような
超常の摂理に結びつけてしまうのでしょう。
 
私たちは整った言葉を求めます。
一方で
私たちは共感に溢れた言葉を求めます。
 
教理の理屈を振り回す説教も
愛の情念にのめりこむ説教も
まるで残尿感のようにすっきりしない。
 
私たちには
整合性と共感と
両方を持たなければ動けない
という願いが本質的にあるからです。
 
神の国への救済の教理と
人間の情緒的な切なさと
両方を語るためにはどうしたらよいのでしょう。
 
人間の理想と
それに反する人間の現実と
人間の情熱と
それに反する人間の逆上と
 
人間の悲しみを深くするそれらを
さらに深い罪人の意識へと高めることを
すなわち深めることを
共感と献身によって成就するために
キリストは来られたような気がしてなりません。
 
 
(2018年07月03日、同日一部修正)
 
鐃鉢(にょうはち)
 
 
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