批判(9)人格障害そして悪魔
 
   批判対象:
   心に病を持つもの。BY YHOSHUAH (以後、ヨシュア氏、あなた、彼)
  
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64560538.html
 
 
批判の前に、以前、偽牧師の偽善者を批判したことがあることは、既に記事に書きましたが、
 
その偽善者は、自分の言い分が通らなくなったとき
まず、聖句を長々と引用しまくります。
こう書いてある、こう書いてある、だから文句を言うな、
と言いたいわけです。
水戸黄門の印籠と同じようなつもりでしょう。
 
しかし、前に述べたように、聖書は解釈次第なのです。
 無節操な解釈は無節操な信仰を生みます。
 解釈を思い込めば思い込み信仰になります。
 
それが通用しないと誹謗中傷、悪口雑言を並べ立てます。
 例えば
 カルトの「○○の証人」に似ているとか言っていました。
 しかし、どこが似ているかは言わないのです。
 貶めることだけが目的の発言でした。
 
それも通用しないと、今度は、相手を病気と決めつけます。
 例えば、
 自分に依存しているから満たされないので自分を批判すると言いましたが、
 偽牧師に誰が依存するかということです。
 また、
 小児期に虐待されたから成人になって逆他する側になったとか言ってきましたが、
 私、小児期の話など一度もその牧師にしたことはないのです。
 私は普通に親の愛情に恵まれて育った親不孝な息子です。
 
そして同時に、
相手を神の敵と決めつけて神に復讐を祈り願う聖句を並べるのです。
つまり聖書は悪意ある者によって利用されやすいということです。
 
この間、一貫して、悔いることがなく、非を認めず、
作戦の練り直し以上の、本当の深い反省をしません。
 
結局、偽善者は、
批判コメントを削除する日常になり、最終的には、コメント欄を廃止しました。
 
 
>このお題は私の専門ではありません。
>だから 調べました。
>いくつか 列挙してみます。
>人格障害・パーソナル障害とは?
 
専門ではないのに、なぜ今、人格障害を語ろうとするのでしょう。
 
推測ですが、私に批判されて、弁明できないでいるからでしょう。
弁明できなければ、反省すればよいことなのに、
自説=神の意志=聖書=神の言葉、ということに凝り固まっているから、
それが出来ないでいるのです。
反省する気がないと言ってもよいでしょう。
 
そして何とかして攻撃しようとしてきます。
 

自分や回りが困っている状況にある人は 障害を疑った方がいいのかもしれないです。
一概には言えませんが、障害がある人はとにかくトラブルを起こすそうです。 
ある障害は、知能は高い人が多く、言動は一見まともに聞こえる、そして 周りに知られない様に人をだまします。
それは 回りが気づきにくいのでタチが悪いです。

 
私を人格障害と決めつけての記事であるなら、
私のために
「自分や回りが困っている状況にある」と思っているのでしょう。
この場合、周りというのは、ヨシュア氏本人だけなのですが。
 
はっきり言って100%被害者意識のようです。
 
ヨシュア氏は、自分の思い込みや欠点について書いたことはありません。
「自分や回りが困っている状況にある」を自分に向けることができないようです。
 
ヨシュア氏は
人格障害の特徴をネットから引用しています。
 
>引用はこのサイトさまからです。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/iyasi/2000/jinkaku.html
 
この特徴について聞かれた場合、正常な人はどう答えるでしょう。--(1)
 
というのは、私のほうは人格障害のうち
反社会性の強いサイコパス(精神病質)について
 
サイコパス(精神病質者)に見られる共通した20の特徴
http://karapaia.com/archives/52164745.html を見たのですが、
同じように特徴が書いてあります。
 
そこに次のようなことが書いてあります。
 
「引用はじめ
 
 犯罪心理学者らが人間の奥底にある精神状態を見抜くのに、以下にある20のサインが役に立つという。だが、もしそのリストの大部分が当てはまってしまって、しかも本人が認めた場合、彼らはサイコパスだと認定できるのだろうか?
 
  それはたぶん違うだろう。心理学者らによると、ほとんどの人がこのリストの特徴の多くに当てはまる時期があるそうだ。誰もが心の中に闇を持っており、それが時として表に現れる場合がある。なのでほとんど当てはまってしまう人がいても、その人がサイコパスとは限らないかもしれない。また、本人に自覚のない場合もあるので自己判断では正しい結果とならない可能性もある。
 
引用終わり」
 
つまり(1)の質問に対して
 
私は全然そういうのはありません、というのは正解ではありません。
多くの人が、特に思春期においては、
いくつか部分的には思い当たることがあるというのが正解でしょう。
 
むしろ、無いに決まってるじゃないか!、と答えたら
何らかの思い込みか強迫観念のようなものが、
「ない」と答えることを強いている可能性があるだろうと思います。
私の記事は、今回、そこが焦点のつもりです。
 
ヨシュア氏の記事は、後半、悪魔の話になります。
なぜ、人格障害と悪魔が同じ記事に書いてあるのか、
状況としては、
悪魔が憑りついて人格障害者となっている誰かを想定している
ということを考えざるを得ません。
 
状況から、それは私のことを言っているのだろうと思います。
 
>悪霊は 人にわからない様に神様を罵ります、聖書を否定します。
>聖句より自分を上に置きます。
>神様の言葉より、人間なら人間の情が大切などと言い出します。
>悪霊は神様が愛する者、物も、すべてを否定します。
>あたかも 神様を信じたふりをします、、。
>そうした時、どうしたらいいでしょう?
>神様の知恵で見破りましょう。
>神様の知恵は 聖書です。
 
そう言うことを神の知恵とでも言うのでしょうか、
結果として人を悪魔扱いしている可能性を指摘しておきます。
 
>聖書で 神様が義と宣言した事に 悪霊は異を唱えます。
>義とは正しいという意味です。
>悪霊は神様が正しいという事に
>正しく無いと言います。
>ある程度 まともな事をいっていたとしても、肝心なところで 
>聖句と真逆の事を言います。
 
聖書は解釈次第ということを認めて
人間として考えることなく、
聖書の流れを辻褄合わせだけで考えると
こういう一方的に自分以外の他者に向けた文章になります。
 
>サタンの敵はイエス様でした、、イエスさま帰天後は
>クリスチャンです、だから サタンはクリスチャンを敵視します。
>だから、サタンはクリスチャンを攻撃します。
>だから よく 聞いて騙されないようにしてください。
 
今まで
私がヨシュア氏の解釈の決めつけを批判すると
彼は、
聖書で答えた、神が教える、というふうに決めつけを語り、
自分の解釈=聖書の言葉=神の意志と決めつけてきましたが、
 
ここに表れているのは、神のみならず、
悪魔についても知っているつもりの慢心です。
そして
自分に反対する者を悪魔と決めつけて
警鐘を鳴らしているつもりなのでしょう。
 
また、ヨシュア氏は、悪魔を、
全く自分という人間の外部に存在する者を見なしているようですが、
そういう見なしをすること自体が
自己に目を向けることなく被害者意識のみで
他者を一方的に悪と見なす決めつけのベースを作ってゆきます。
 
心ある人ならば、
悪魔が自分の中にもいることに気づいているはずです。
 
ヨシュア氏は被害者意識から、
相手を悪魔と決めつけている可能性を指摘しておきます。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)、貶す(けなす)