身の丈
 
 
人間は人間の身の丈しかないのに
人間の身の丈で
神の身の丈を測りうると思い込み
神の意志が正確に分かるようになります
などと言っている者がいます。
 
人間が神を考えるとき
どんなに想像を逞しくし
聖書の儀式や慣習など言葉の
辻褄を合わせても
そこに対象となる神は
人間の身の丈の神でしかありません。

つまり偶像です。
 
つまりそれは
本当の神の偉大さを
人間の身の丈で論じようとするような
傲慢不遜に過ぎないことです。
 
私たちは
人間性しか持ち合わせていません。
 
私たち人間が
この人間の身の丈の知恵をもって
聖書から受け取ることが出来るのは
人間性で理解できる範囲だけなのです。
 
それはキリストと人々の対話など
鋭いキリストの洞察力と
豊かなキリストの人間への共感性によって
人間に可能な共感を受け取るだけなのです。
 
それ以上は
辻褄があったとしても
私たち人間は
人間としての身の丈以上ではないことを弁えて
結論することを遠慮して
分からないと言う選択しかないのであります。
 
私たちは
神の身の丈を思考の対象とすることはできません。
 
にもかかわらず
人間の身の丈を超えて
分不相応な理解をしたつもりになれば
さらにそれを
不変の神の意志と決めつけてしまうと
人間の身の丈しかない神の偶像を崇拝することになります。
 
その偶像崇拝と
身の丈を超えている不遜で
人間性の届かないところを分かったつもりになることは
やがてその無理の影響が
その人間の頭と心に障るようになり
人間のあるべき人間性を損なってゆきます。
 
実際
誰が諫めても指摘しても批判しても
全く尊大の位置に留まったまま
上から損なわれた心性をあらわにするのです。
 
その症状は
自説絶対を守るために
批判者に対して
汚い言葉で言い返すことに専念するわけですが
 
大方は
批判を否定文にしただけで言い返した気持ちになって
あとは相手にしないような
揶揄や突っ張り方しかなくなり
ときに
何か批判者の弱点を知れば
そのことを再三持ち出して個人攻撃をしてきます。
精神病ではないかと平気で言ったり
知識不足で話にならないようなことを言ったり
荒らしだと言ったりします。
 
また心の視野の破損による狭小化をきたすために
理解力も損なわれて
場にそぐわない言い方も目立ってくるのに
なぜか幼稚な思考と先入観で
挨拶しないのが悪いなどと社交の礼儀など
些細なことに執拗にこだわってきたりします。
人間にとって欠くべからざるところの
ものごとの重要度の判断が出来なくなるのです。
 
それで言い得たと思っているので
議論に負けていない風を装うのですが
もはや突っ張るだけの
背伸びしてバラバラになりそうな
竹人形か何かを相手にしているようで
ここまで自分の状態を見ようとしない態度によって
身の丈を超えようとした人間の笑えない有り様を見て
むしろ神への恐れを新たにするのです。
 
このように
訂正不能に陥った傲慢不遜は
いつ来るか分からない終末の裁きとかではなく
この地上において既に悲惨であり
器の大きさも心の弾力性も見られなくなります。
 
神は恐るべきかな。
全能は恐るべきかな。
絶対は恐るべきかな。
身の丈を弁えない者のための
破壊の道さえも
人間離れの報いとして
自覚されることのないところの
人間性の負の部分として用意しておられるとは。
 
私たち人間は
特に信仰者は折々に自らの身の丈の自覚に注意して
一時的な思い込みならまだ修正可能ですから
努めて反省と悔い改めの祈りを心掛けるべきでしょう。
 
身の丈を誤らない限り
神は人をお見捨てになることはないのです。
 
私たちが
約束の赦しと導きと救いを与えられるために
さらに慰めと癒しと喜びを与えられるために
身の丈を誤らない努力のみが
神に対して人間の出来ることだからです。
 
最近、人間離れの人ばかり見ているような気がします。
どうか潤いと温もりのある人間になれますように。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)

 
逞しい(たくましい)

揶揄(やゆ)

 
身の丈(みのたけ)≒身長、
  ここでは比喩的に使っています。≒身の程