聖霊
 
 
聖霊は聖三位の御一方
神の領域の御方であり
神でありキリストであるとも言える御方。
 
聖霊が降りることは
神や顕れることと同値である。
人は恐れて跪くべきことである。
 
ある人に
聖霊が降りたかどうかは
その人が
それにふさわしい言動であるかどうかをもって
推測されるにすぎない。
 
それは奇妙な言動ということではない。
安らかに見えるということでもない。
 
キリストと同じように
誤りがないのに謙虚であるかどうか
安らぎと癒しを他者に与えるかどうか
によって推測されるにすぎない。
 
つまり聖霊は
人が自分でその降臨を自覚するものではない。
 
聖霊は
人々の中に起こる現象でのみ降臨を推測される御方。
 
一人称で自分が
聖霊と交わった、
聖霊に従う、聖霊と相談して、
などと言うことは
人が聖三位を確定できる
という
聖三位に対する冒涜である。
 
そういう一人称主語の言説は
聖霊について成り立たない。
 
聖三位はいずれも人格を含むが
聖三位のいずれも、人が
人格と同じように交われると思うべきではない。
 
聖書に書かれている聖霊が
人のために身近に遣わされるからといって
友人のように親しむことの出来る御方と思ってはいけない。
 
聖霊を
人に対するように敬うだけで
神を恐れる気持ちを持たないまま
談笑できる相手として交わろうとするなら
聖霊の代わりに
聖三位が共通して含む人格ではなく
聖霊に似せた偶像が
人を
人道から非道へ
人間から人間離れへ
非人間の道へと導くだろう。
 
これは超常の奇跡を好む者が陥りやすい罠である。
 
人は、
聖霊と、
インスピレーションや
ひらめきや
気づきなどと言われるものとを
明確には区別できない。
 
実際それらは
どちらも神から与えられるものかもしれないからだ。
 
聖霊を区別できると思い込めば
その器に降りてくるのではなく
その器で捏ねらた焼き物の
石によって打たれるだろう。
あるいは
器に盛られた安酒によって酔いしれるだろう。
そして毒によって冷たく凍った薄笑みへ引き攣るだろう。
 
自己暗示の陶酔気分を
聖霊の臨在と勘違いしてはいけない。
 
聖三位を表す言葉は
人が知っているところの
いかなる言語をもってしても概念化できない言葉であり、
いかなる人知をもってしても実体化できない言葉である。
 
人間は
神聖でもなく、また、化け物でもないのだから
人間の心で反応できるものしか受け取ってはいけない。
 
ゆえに私たちは憧れをもって
聖三位を想像しては
的外れになる自分の心の貧しさに嘆くことになり
それゆえに聖三位の赦しと癒しを必要とし
砕かれた魂のみを捧げて祈るのである。
 
そういう信仰だから
キリストの荷は軽いのである。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
跪く(ひざまずく)
捏ねる(こねる)
罠(わな)
引き攣る(ひきつる)