批判の根拠
 
 
他者の信仰を批判するのは良くない
という話を聞きます。
 
その背後には
敬虔という意味を
人の言うことに文句を言ってはいけない
と取り違えていたり、
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
という聖句によって、
批判を悪口と同じように見なしていることがあるでしょう。
 
それで人と人同士では
口喧嘩のみならず
批判や、さらには議論まで不義と見なしてしまって
批判禁忌の不文律が出来上がっているのでしょう。
 
信仰は社交ではありませんし
間違えている人に何も言わなかったら
間違いが継続するという矛盾があります。
 
批判は苦手という人に
批判しろというわけではなく
少なくとも
批判は
する気のある人や
出来ると思う人や
するべきだと思う人がするのです。
そこで
批判は良くないと言うことは
そう言うことも
批判していることになりますから
これは成り立たないでしょう。
 
ここで
信仰は理屈ではないなどと言わないでください。
それは問題をすり替える詭弁です。
 
しかしもう一つ
何が間違いか言える人がいるのか
ということを
批判禁忌の根拠のように考える人もいます。
 
この問題は
何が正しいか言える人がいるのか
という問題と同質として考えるべきでしょう。
 
信仰について考えているのですから
真偽は数学のように明確ではありません。
 
しかし全く不可能ではありません。
というのは
私たち信仰者には
神は全知全能であり
人はそうではない
という大前提があります。
そういう御方として神を信じているわけです。
 
それゆえに私たちは罪深いのであり
ゆえに救いを必要とするのです。
 
この神と人の決定的な違いという前提は
信じる者にとって
信仰が成り立つために最も基本的な理解であり
それが成り立たないならば信仰ではない
と言ってもいいのです。
 
前から言ってきたように
人の不全の自覚において信仰は成り立ちます。
 
すなわち
人が不全の自覚を失っている状態や
さらには人が神と同等である自覚が批判対象となり
また
これも前から言っていることですが
神の関わることについて
人が、分かる、知っている、見える、
などと言うことが常態であるならば批判対象となります。
 
不全を忘れ
自己に慢心する者は
幸福と満足を伝えるようになり
祈りは感謝と讃美に偏り
批判禁忌をよいことに
ついには教える立場から
愚にもつかぬ独善を
微笑して得々と語るようになるのです。
 
この現象は言葉にも態度にも表れ
人間性を欠いた圧力を持っていることで
人間にも時に判断可能です。
 
一見柔和に見えますが
引き込まれると知らないうちに
従属の身分に落とされて
いつのまにか慢心する者を
肯定し讃える社交の世辞の役割を担ってゆくことになるでしょう。
 
このような慢心からは
赦しの祈りは儀式に過ぎなくなり
慢心の好むところになってゆくでしょう。
 
私の罪をお赦しください
という祈りは
不全の自覚からしか生まれないのです。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)