信仰を学ぶとは
 
 
超常の救いの筋書きを学んでも
信仰を学んだことにはならない。
 
超常の救いの筋書きに詳しくなっても
つまり教理の解釈に詳しくても
それは聖書の中で
一応知っておくことであって
信仰を語る上で
少しも進歩したことにはならない。
 
超常に心から感動することはない。
超常の話に心から救われることはない。
それだけでは起こりそうもない夢の話である。
それらは参考にする知識に過ぎない。
 
超常のことは
人間にはどうしようもないからである。
 
ましてや
聖書一途ですと言いながら
単方向と社交で
発信するだけになるのは空しい。
対立意見のないところでは
人間はそして信仰も成長しようがないからだ。
 
同様に
キリストの物や肉体の奇跡の話を
いくらつないでみたところで
信仰を学んだことにはならない。
 
奇跡に心から感動することはない。
奇跡の話に心から救われることはない。
それだけでは起こりそうもない夢の話である。
それらは参考にする知識に過ぎない。
 
物や肉体の奇跡はめったに起こるものではない。
滅多に起こらないものを
人間が拠り所にすることは空しいだけだ。
そのために自らを捧げることは人間離れになるだけだ。
さらに悪いことにそういう者は
伝道と称しても
他者を自らの超常奇跡に巻き込むだけだろう。
 
無条件に正しいと言い張る者に
無根拠をもらっても空しい。
言い張りはヒステリックな犬猫の遠吠えのようなものだ。
 
自分という人間を解放してくれるのが信仰なのだから
信仰と名付けた心の縛りに縛られて、
なのです、と、ねばならない、を
繰り返す強迫神経症は空しく悲惨である。
それは解放をもたらさないばかりか
人間を硬直させ崩壊させるだけだからだ。
 
大切なことは
超常の奇跡はわきに置いてもいいから
キリストに救われた人々のように
キリストの人間への共感に
人間として共感することだ。
 
そこに人間として生きるために
一番大事なことが表れている。
 
その共感なくして
いかなる人の信仰も成り立たない。
 
その共感こそ慈愛であり
神の愛であり人の愛である。
そこだけは受け取らなければ信仰ではない。
 
私たちは魔法の組織に組み込まれたのではない。
 
私たちが何と言おうと
私たちには手に負えないところで
神の超常の計画は神によって進むのであり
 
私たちは、ただ、
救われるに相応しい人間であることだけが求められている。
 
救われるにふさわしい人間とは
救われる条件であり
それは知識によって高められるようなものではなく
ただキリストとのご縁によって導かれるのである。
 
奇跡志向や儀式志向の者たちに惑わされてはいけない。
得々と聖書に書いてあるからと
神に比して問題にもならないような
お粗末な知識を並べるものを相手にしてはならない。
 
私たちは話がうまくなるために信じたのではない。
知識の引き出しを増やすために信じたのでもない。
救われたいから信じたのである。
 
知識だけに頼るのは
信仰を知らない者がすることである。
彼らは自慢したいのだろうか。
長話をしたいのだろうか。
教える立場に満悦したいのだろうか。
見下ろしたいのだろうか。
 
人が聖書を決めつけることを
人が全能のように知識をひけらかすことを
言うまでもなく神は望んでなどおられない。
 
私たちは
自慢できなくてもいい。
長話などしなくてもいい。
教える立場など要らない。
見下ろされても構わない。
 
いかなる自慢も多弁も欲しない。
正義さえも必要ない。
屈辱を受けたからどうだと言うのか。
そのために低さも弱さも乏しさも受けて構わない。
それは私たちを
救われるべき人間に近づけてゆくことを知っている。
 
キリストとのご縁は
何も持たずに救いを求める者に与えられる。
 
それは神秘的な結合ではない。
地上にいる限り
それは人間的な共感の繋がりである。
 
猛々しく豪語する者や
怒って退けようとする者や
口を開けば大仰に讃美する者や
丁寧に従属を強いる者に
一片の賛同も世辞も必要ない。
 
凄まじい体験を経て信仰に救われたのなら
それを儀式のような辻褄で汚してはいけない。
分からないことは分からないのだから
分かったと言ってはいけない。
 
知識を誇る者に信仰はない。
知識の多い者と少ない者とで信仰の差はない。
知識で信仰を説明することはできない。
 
神と人の
全能と不完全の
全て分かっている神と多くを分からないでいる人の
決定的な違いを弁えなければ
信仰は成り立たない。
 
私たちは大方
神について分かっておらず
にもかかわらず
分からないまま救われる。
 
信仰に生きるために
分かろうとする努力は大切だが
神と信仰について
分かったという結果は地上にはない。
だから詳しく分からなくても信仰は成り立つ。
 
ゆえに
キリストの荷は軽いのである。
 
 
(2018年07月30日)?
 
繋がり(つながり)
辻褄(つじつま)
汚す(けがす、よごす)