ヨシュア批判:カルトとサタン(1)
 
 対象記事:サタンや悪霊に譲歩してはいけない。その2
 2018/7/31(火) 午後 10:54
 
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64564984.html
  by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
ヨシュア氏のキリスト教はカルトだと思います。
特徴としては訂正不能の教条主義です。
聖書的な話を説教していますが、
その始まりは
人間が神の意志を固定しているわけです。
さらに
人間的な立場を放棄して決めつけています。
さらに
この記事の中に書いてありますが、
悪魔がいたなどという話をして
批判者を悪魔に取りつかれたものと見なしています。
さらに
甚だしく闘争的で
批判者を攻撃するときの特徴として
同じ教条主義の話を繰り返すのですが、
私のブログから個人情報を分別なく持ってきて
マイナスの印象操作をしています。
結論として
このようなカルトにつかまりコントロールされると
正常の自由な精神の活動が抑制され
同じような教条主義に縛られることになると思います。
十分に警戒して近づかないほうがよいと思います。
またほかの人にも情報を告げて
近づかないように敷衍したほうがよいと思います。
 
>今回のアブラハムの義人の問題、、
>とくに私にとっては決定事項なので問題でもないけれど、
 
このように、神の意志を決定事項の訂正不能として、
聖書の解釈を決めつけているサイトです。
 
>stという人が アブラハムは義人では無いと言い張るので、、
>私のブログでは問題になっています。
 
聖書には人間が受け入れるのが無理な話があるということです。
疑問は疑問として保留するべきだと言っています。
 

stさんはそれまで 私の記事に ナイスポチをことごとく
入れていました、それがアブラハムの話がこのブログで
された時 急に コメントをしました、それが 初コメント。
待ってましたとばかりに、コメントをしています。

 
待ってましたとばかりコメントしたわけではありません。
おかしいと思ったら批判をするのは当然です。
 

コメントは悪くないですが、主張に私と へだたりがありました。
stさんがどう言おうとも、聖書で神様がアブラハムを義と
認めたと記録している以上、人がどう思考しても 神様が
示した事つまり アブラハムが義人なのは決定しているのです。

 
同じ主張を繰り返すのは、他者の意見を受けていない証拠です。
また、完成している意識をもって成長と変化を拒否する態度です。
神は、人を、学習し成長するように望まれています。
ペテロ、パウロ、などに、それは表れています。
カルトであるヨシュア氏には、それが分からないのです。
 
アブラハムが義人と言いますが、
人に対して神が与える義は
信仰の義であって
神のような、することがすべて正しいという義ではないのです。
キリストに救われた人々と同じように
見捨てることなく導くという神の愛の対象ということです。
 
ヨシュア氏は、神の義と、人の信仰の義が、区別できない、
というより、自身の教条に固まって、区別する気がないのです。
 
>この時点で 将棋で言えば積んでいます。
>本来なら ここで 議論は 終りなのです。
 
積んでいると、勝負のように語り、考える余地を持ちません。
こういうことが、カルトの特徴でもあります。
 

しかし、
stさん曰く(いわく)私だったら 人として親としてイサク燔祭はできない、
私がそう思うのであるから、アブラハムの儀は認められない、
また他では 儀かどうかを留保する、というコメントでした。

 
この漢字は、単なる間違いでしょうか。二度。好みでしょうか。
それとも、ヨシュア氏は、義より儀が大事なのでしょうか。
正しさより形式が大事だということでしょうか。
だとすれば、・・パリサイ人の精神ですが。
 
父アブラハムが、咎のない息子イサクを生贄に捧げるために殺す、
という行為を
そのまま正しいということは、人間ならば理解できないはずですが、
そこが教条主義のために頑なで、正しいと言ってきかないのです。
視野と思考の狭小化と人間らしい情緒の喪失がここにあります。
 

私だったらは仮定の話です、、それは ひとつ大事な前提が
抜けています、アブラハムはイサク燔祭の前から義人だと神様が
認めた人間です、stさんは、アブラハムがすでに義人だったことを
忘れているか、聖書を読んでいないから知らないのです。
神様は義人と認めたうえで、動物の燔祭も息子イサクの燔祭も指示したのです。
義人でも無い者が義人になったつもりで神様の言葉を判断する事自体
が不遜です。 

 
神と人は双方向であり、変化と成長をもたらします。
それは、聖書に生き生きと描かれており、人間に必要不可欠のことです。
 
ところが、カルトであるヨシュア氏の一方的な主張においては、
既に完全という意識から、成長は必要ないと思い込むのでしょう。
 
このように理解できないことを
理解できないという正常の反応をすることが出来ずに
無理に呑みこむように
分からないまま分かると言っているのです。
 

こうした儀式はすべてイエスさまをこの世に迎える
準備のためのものであったので、メシア イエス様がすでに約2000年
前に出現したのでもう、そうした儀式は必要無いのです。
ですから、もし自分がアブラハムの立場だったら、、とか 考える
必要はありません。絶対にないのですからね。

 
このように、末尾の言い張り強く、思考停止です。
生じてくる矛盾を人間として受け止めることなく
今は儀式の必要がないからと合理化してしまいます。
 
昔と今で人間性というのはそう変わらないと思いますが、
ヨシュア氏の聖書解釈には人間がいないのでしょうか。
 
こういう解釈の態度は
自分は聖書が分かっている、分からないことはない、
という優越意識から生じるものでしょう。
この優越意識が
ヨシュア氏の言説全体にわたっていることを知ってほしいです。
こういう人は、いかなる場合も非を認めないからです。
 

それでも子供を想う親として考える事、人によって ない事はないでしょう、、。
stさんはマリアという女性をも、さんざん批判し、意見が相容れないので
、このへんで やめてくださいと言っているのに ストーカー化して
続けると言う。stさん あなたは変質者ですか?すでに 異常者です。

 
そして、カルト信者ヨシュア氏とMgMは、その保身のために
批判者を、変質者、異常者、と呼ぶことにためらいがありません。
これも、カルトであることの特徴だと思います。
柔和と敬虔、いずれも見られません。
 

マリアさんは女手 ひとつで 子供さんたちを育てています、
stさん あなたは 子供さんはいないとの事、、
子供を育てた人が考える事と無い人が思考する事は
重みが違います。

 
子供がいることと、信仰は別です。
こういう区別さえつかないのです。
有利になりそうなことは何でも使うわけです。
ヨシュア氏は、同情を誘おうとしています。手段を選ばないですね。
私は二人は同一人物ではないかという疑念を既に提示しています。
 

実子が居る人がアブラハムのイサク燔祭を
考える場合、あなたの 空想上の思考とは訳が違います。
本当に子供を育てた人がアブラハムのイサク燔祭の苦渋に
寄り添って考えた上で、神様の言葉が正しいと判断したのです。

 
アブラハムの苦渋が分かるなら、寄り添えるなら、
息子を殺そうとする意志と行為を義と感じることはできないはずです。
 
私は人間の実感を前提にして考えます。
ヨシュア氏の信条は机上の解釈の辻褄合わせに過ぎません。
 
分かってはならないことを、分かったと言ってしまうのです。
保留ということが出来ない余裕のなさは、
いずれ、余裕のない指示や命令を信徒に発する危険があります。
抗弁の材料や手段を選ばないことに表れています。
 
修正不能は信仰を破壊します。
修正可能が信仰を成長させます。
ゆえに
保留の懐を持ちたいものですが、絶対持ちそうにない人がいます。
 
 
(2)に続く。
 
 
(2018年08月02日、同日一部修正)
 
咎(とが)
敷衍(ふえん)≒広めること
 
 
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