気づかないシャローム(2)
 
   「批評」の確立の困難さ
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28691854.html
     by shalom  (以後、シャローム、あなた、彼)
 
 
シャローム氏は、上のタイトルの記事を、補足したようです。安易な譬えを、意地で貫こうとしているようです。その結果、人間の原罪という重要な問題を表している創世記の話を、夫婦喧嘩みたいに語って、結局、恐ろしい結論に達しています。
 
>アダムとエバの二人を「張り合わせられた異なる種類の金属板」と考えてみます。
 
バイメタルの比喩を続けようというわけです。解説したつもりのようです。
 

アダムは男性で物事や人との関係を論理的に考え、言葉で表現し伝えようとするようです。
エバは女性で情緒的に感じ、その心の思いを、感情豊かに表現し、伝えようとするようです。

 
男女の一般的な違いに喩えたいようです。男は論理的で、女は情緒的だと言っていますが、このような決めつけが一番いけないことだとは思わないようです。そのあとの文章で弊害が表れてきます。
 
アダムとエバについて、聖書は、詳しい性格までは語っていません。原罪を表すのに、それは必要ないからでしょう。なのに、シャローム氏は、自分の考えで勝手に決めつけています。
 
なぜ余計なことを書こうとするのでしょうか。自説をまともに見せたい以上の理由が見つかりません。彼の記事とその補足は、もはや意味がないのです。
 
完成した絵画である聖書に下手な色を塗りつけるようなものです。
 

そんな二人が一緒に生きているとき、同じ物事、人との出会いを体験しても、
当然アダムとエバの理解、気持ちはふたり同じではなく違いが生じます。
その時、お互いに相手のあるがままを理解、気持ちを受け容れ合えればいいのですが、
アダムの理解が言葉で表現され、エバの心の思いは言葉より非言語的な表現で伝えられる時、
ちょっとした“ずれ”が二人の心に生じることがあります。
そのような“ずれ”はよくあることではないでしょうか。
二人の関係が良い時にはそれほど問題なく、かえってその違いを互いの個性として、
受け容れあえれば、互いに愛し合っている素晴らしい姿となります。

 
"ずれ”があることを書いておきながら、失楽園というテーマでありながら、いい夫婦ですね、というような夫婦漫才にしたいのでしょうか。
 

それが、「人(アダム)と妻(エバ)は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2章25節)という
神さまが二人をつくられた本来の関係、姿だということができると思われます。

 
そして、こともあろうに、神が二人を造ったことを、シャローム氏が本来の姿だと判定しています。裸であったのは、まだ恥ずかしがるようになる果実を食べていないからでしょう。私たちは、原罪後の人間、裸は恥ずかしいのです。何が本来の姿なのでしょう。分かりもしないくせに、と言いたいところです。原罪となる罪を犯す罪人であるアダムとエバの話なのです。
 

ところが、ふたりが、またひとりが神さまが食べてはなりませんと言われた、
あの善悪を知る木から取って食べると何が起こるでしょうか。

 
コメント欄のないブログで問いかけていますが、それよりも、どうなったかは、聖書に書いてあることです。シャローム氏が、もったいぶるのは、すでに底の知れた彼が、まだ、聖書の先生だと気取りたいためでしかありません。
 

アダムとエバは二人の間に生じた“ずれ”が気になってしまい、
どうしても、二人は自分の理解、気持ちの“ずれ”をなくし、一致させたくて、
アダムは論理的な言葉で説明し、エバに理解を求め、
一方エバは心の思いを言葉で表現しにくさを感じ、感情を非論理的な言葉で伝えようとします。

 
気取っているだけという証拠です。シャローム氏は、バイメタルに執着するあまり、アダムとエバの心理を創作してしまいます。それぞれ自分勝手と思われるのに、相手を気遣うあまり罪を犯したことにしてしまいます。神をも恐れぬシャローム氏です。
 
 (創世記、口語訳)
3:11
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
3:12
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
3:13
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
 (創世記3:11-13、旧約聖書)
 
それぞれ他者のせいにしています。だから、二人はそれぞれ、自分勝手と思われる、と書きました。禁断の果実を食べたのが最初の罪、この箇所が最初の偽善ではないかと思ったりもしますが、要するに、原罪です。
 
アダムとエバは"ずれ”をなくし、一致させようとしているでしょうか。
 
シャロームは何を言っているのか、信仰そのものを分かっていない人が勝手に聖書を解釈すると、このような、おかしなことを言い出す、という見本になるでしょう。
 
アダムとエバが神に言い訳をしたように、潔さが全くないシャローム氏は、下手な文章の言い逃れのために補足して、ますます酷い話にしています。
 
>どちらもまちがっているわけではないのに、大きな“ズレ”になってしまいます。
 
どちらも間違ってない、という解釈があるでしょうか。またしても、シャロームは、何を言っているのか。原罪を表す聖書の箇所なのです。つまり罪の話なのです。
 

このことはアダムとエバの間だけではなく、人間関係や社会でよく起こることではないでしょうか。

 
だから、いいとでも言いたいのでしょうか、普通だとでも言うのでしょうか。避けるために何かを考えることをしないのでしょうか。シャロームは、しない人かもしれません。
 
人間社会で、よく起こるのは、それが人間共通の原罪だからです。つまり罪の話なのです。
 

ブログも言葉によって、お互いの考えや心の思いを伝えあっているのですが、
すばらしい出会いの喜びもあれば、荒らし、炎上となってしまうこともあります。

 
人の意見を受け取らない人、反省しない人は、伝えてはいけません。伝えるための言論の責任を負う気がないからです。そういう人にとって素晴らしい出会いはありません。シャロームが言っているのは、賛同の世辞のことです。
 
シャロームは、根拠もなく、私を荒らしだと決めつけましたが、彼は、荒らしと仲良くして、その荒らしは私のブログを攻撃しました。もう一度、載せておきます。荒らしと仲の良い、実に憎々しいシャローム氏です。
 
(引用はじめ)
 
> st5402jpさん 
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
(引用終わり)
 

その時、私たちの心のバイメタルはどうなっているのでしょうか。
きっと、本来まっすぐになっているバイメタルが曲がってしまい、
私たちを造り、生きたものとするために、ご自分の命の息吹を吹き込んでおられるのに、
二人の心をつないでいるバイメタルにゆがみが生じ、安全装置が働いているのではないでしょうか。

 
ゆがみが生じ、安全装置が働いているのに、反省もせずに、また記事を書き続けているシャローム氏こそ、神が吹き込んだ命の息吹を何と思っているのでしょう。
 

お互いにお互いのゆがみを指摘し、相手のゆがみを正そうとしても、
バイメタルはますますゆがみを深めてしまうようです。
家電品なら大変な事故を招くかもしれません。
やはり製造元であるメーカーにバイメタルの修復、時には交換をしてもらうことがいいですね。

 
ここに至って、やけくそなのか、比喩であることを忘れたのか、製造元とは神のことでしょうか、修理か交換してもらうことがいいですね、とは、どういう結びなのでしょう。
 
神に壊されて死ぬしかない、と言いたいのでしょうか。信仰によって生まれ変わらないといけない、と言いたいのでしょうか。ここで終わって、続くべき肝心の説明がないのです。
 
それと、引用文献の主旨が、どこかに飛んでしまいました。
 
シャローム氏は、また、ごまかすために、書き変えるかもしれないので、
今の日時は、2018年8月26日、午前3時42分です。
 
彼が、また、書き変えて、ごまかすつもりなら、私も、また、追加の批判記事を書くでしょう。
 
 
(2018年08月26日午前3時42分、一部修正)
 
 
(26日、その後、追加された文章)
 

アダムとエバの関係にその問題が生じた時、
神さまが“あなたはどこにいるのですか”とふたりを探されたと
聖書(創世記3章9節)には書いてあります。
でもふたりはイチジクの葉っぱで恥ずかしい所を隠したり、
怖れて木の陰に隠れたり、お互いに責め合ったり、
おしまいには神さまのせいにしてしまうのです。
私の、私たちの姿ではないでしょうか。
神さまはいまも“あなたはどこにいるのですか”とさがしつづけておられ、
また、どこにいるのかさえ分からなくなり、迷っている私たちを、
ご自分のもとに導くために、神の御子イエス・キリストをお遣わしになられたというのです。
聖書は神さまの私たちへの愛の記録、救いの約束、契約なのです。

 
「製造元であるメーカーにバイメタルの修復、時には交換をしてもらうことがいいですね」という比喩に相当する信仰の文章は何なのでしょう。
 
キリストが遣わされたことにしては、比喩として、表現が、不適切で、かけ離れています。神様に何とかしてもらう、という意味だったのでしょうか。
 
最後は、「聖書は神さまの私たちへの愛の記録、救いの約束、契約」という、讃美の美辞麗句で終わっています。
 
この記事、書く必要があったでしょうか。試しにちょいと書いてみました、ということでしょうか。遊びか、ボケ防止の脳トレとして、書いて、公開するのでしょうか。
 
 
(2018年08月26日午前11時30分、追加)
 
 
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