讃美と忠実
 
 
カルト的崇拝に
よく見られるものとして
過剰な讃美があげられる。
 
折々の理由のある感謝と違って
讃美は曲者の大好物である。
 
感謝することは下から上の印象を伴うが
誉めることは
よく出来ましたという上から下への印象を伴う。
さらに
讃える理由が具体的にあれば
それは寧ろ感謝の祈りとなるだろう。
讃えることは
讃える理由が特別ないときに
呪文のごとく
神を褒めまくっていることが多い。
 
分かりもしないのに
また人間に分かることではないのに
神のなさることだから正しいと
正しい信者になりきって
神の味方をしたつもりで言ってしまいやすい。
 
これは
自分は神の正しさを知っている
と誇る行為である。
しばしばカルトのやっていることだろう。
 
教えられたとおりに
神を単純に讃美するとき
神を讃える自分は神に忠実な信者であると
忠実でない自らの代償行為の確認作業になりやすい。
義務を果たしたような気分になるときには要注意である。
 
神を讃えるつもりで
自らの代償行為の確認と反復に過ぎないなら
少しも神を讃えてはいない。
 
讃美するときには
そこに神に対する自らの敬虔があるかどうか
よく考えてほしい。
 
 
神を讃えたいなら
神に忠実でありたいなら
人間として正直であるしかない。
 
これには神に対して
分からないことは分からないと言うことが含まれる。
では分かることは分かると確信してよいかと言うと
それは人間の不全性から
今そういう気持ちであるにすぎないと考えるべきである。
 
神を分かって信じることは殆どないのが
人間の不全性である。
にもかかわらず信仰が成り立つのは
ただ神の憐れみによるのであり
讃美がそれを支えるわけではない。
 
神に忠実であることは
神が分かることではない。
また神について何でも頷くことでもない。
それはカルトの餌食になることだ。
 
分からないことは分からないと言うべきであり
分からないのに分かると言うのは忠実ではない。
正直ではないからだ。
 
神は褒められることを善しとしないと思う。
何故なら神にはその必要などないからだ。
 
讃美が無条件に正当である場合は多くない。
迫害、逆境、臨終など、
讃美する以外にすることがないような
崖っぷちの時に限られるだろう。
 
神に対して
とにかく逆らわないことが大事と
何故か
バチが当たらないように讃美する習慣があり
分からないと言うことが罪だと思う因習がある。
 
神に対して
見える、分かる、知っている、守っている、
という言葉のほうがよほど罪であり偽善である。
 
いつも喜び
いつも讃えよ
という教えを勘違いしてはいけない。
 
神は全能であるゆえに
人が
いつも喜び
いつも讃えることが出来ないことを
既にご存知である。
 
聖書を人間として読まず
超常を分かるという思い込みで読む者たちの
無理強いに騙されてはいけない。
 
いつも喜んでいないといけないのではない。
いつも讃美しないといけないのではない。
信仰が深くなれば
喜び讃えることが多くなるだろうということだ。
 
私たちは欠点の多い人間であるから
神はそれを憐れまれ
信仰という祈りの道を与えるのであって
その人間が
私は忠実で模範的でございと
やたら讃美しまくるという捧げものは
世辞と言うべきだろう。
それを神に対する心とするべきではない。
 
 
理由もないのに
いつも喜んでいる異常な感情を
神が善しとすると思うのは
さらに異常である。
 
神に逆らってはいけないと
自ら大仰な讃美を生業のようにしばしば唱えて
他者にもそれを手本として讃美することを要求して
神に成り代わろうとする者を信頼してはいけない。
 
曲者のカルトは
紛い物の讃美を連呼するのが大好きなのだ。
 
讃美するときには
そこに神に対する自らの敬虔があるかどうか
よく考えてほしい。
 
 
神に対する忠実は
神に対して正直な人間であること以外にはない。
 
 
(2018年08月28日、同日一部修正)
 
讃える(たたえる、称える)
曲者(くせもの)
寧ろ(むしろ)
贔屓(ひいき)
頷く(うなずく)
餌食(えじき)
生業(なりわい、せいぎょう)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]