罪人と悪人と偽善
 
 
自分は罪人あるいは悪人だと言いながら
平気で笑って罪あるいは悪を重ねることは
罪人あるいは悪人の救いを悪用した偽善であります。
 
これはキリストによる罪の赦しと罪人の救いを
あるいは悪人正機を
さらに逆に悪用した偽善なのです。
 
真の罪人あるいは悪人の自覚には
その自覚において真摯であることが
少なくとも暗示されている必要があります。
 
 
キリスト信仰の立場から言うと
罪人であると認めながら
罪人だから罪人だからと
避けられる場合にも平気で罪を重ねることは
罪人である自覚が偽りであったということになり
罪人だという告白は嘘であり
嘘を吐いて
罪人の救いを悪用しているのだから
偽善に他ならない。
 
地上の人間の世界では
人間の不完全性によって
多くのことが逆説的になるようだ。
 
善いと思われることが悪と表現されたり
悪いと思われることが善の見かけを持っていたりする。
 
したがって偽善という
罪よりも悪質な罪が生まれてくる。
 
罪はゆるされるが偽善は赦されない。
 
キリストは罪を赦し偽善を裁くために来られた。
 
罪は見えないことがあること
偽善は見えると言い張ること
 
見えないことは避けられないことがあるので
赦される罪である。
 
見えると言い張ることは故意であり
人の意志によって改めなければ
赦されることを拒む自己正当化の偽善である。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ9:41、新約聖書)
 
偽善は必ず
言動のどこかに自己正当化が入っている。
 
 
したがって
罪人だから悪人だから
ということを自己正当化に使えば偽善である。
 
伝道者は文脈や言動の前後関係を読むという難局に直面するが
 
罪人だから悪人だからと言いながら
その前後の不遜に変化がない場合
また
罪人だから悪人だからと言いながら
嘲りや威丈高や平気で相手を嘲笑う場合
それらは
罪人の救いも悪人正機も本気ではなく
真っ赤な偽物すなわち偽善としか言いようがない。
 
 
キリスト信仰の立場から言えば
罪人であることの自覚、
神の前に魂が砕かれること、
キリストの愛を感じ取ること、
などの宗教的体験として
何らかの気付きが訪れた時が本物であれば
人間として
心も言動も態度も変化しないではいられないということです。
それを悔い改めというのです。
 
 
(2018年08月29日)
 
 
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