人間離れへの伝道
 
   あなたの王はだれ?国籍はどこ?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28696948.html
   (2018/8/28(火) 午前 10:01)
    by shalom (以後、シャローム、彼、あなた)
 
 
前の記事で私は次のように書きました。
 
「偽善は必ず
 言動のどこかに自己正当化が入っている。」
 
非を認めず、罪を認めず、人を人とも思わず、人の言うことを聞かず、人のコメントを削除して、自己正当化を続けてきたシャローム氏は、性懲りもなく、また、教える立場から、記事を書いています。一見、まともに見える記事ですが、彼のこれまでの偽善の継続が表れていると思います。偽善者は、気づかないまま、自分を破壊してゆくので、まともなことを書こうとしても、自分に都合の良い、実際は誤解を受けそうなことを書いて、必要なことを書けないか、書かないで、平気でいられるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
16:16
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
・・・
16:21
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
 (マタイ16:16-19,21-23、新約聖書)
 

ペテロの言葉を聞き、そのことは私の天の父があらわされたのですと言って、
あなたは幸いだ、と喜ばれたイエスさまでしたが、
その同じペテロの言葉を聞き、
今度は「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と
厳しく叱られたのです。
同じペテロの言葉と、同じイエスさまの言葉なのです。
ペテロの心にはイエスさまに対する信仰の言葉と、
サタンの神のことを思わず、人間のことを思う言葉が同居していたようです。

 
22節のペテロの言葉は、イエスの身を案じたゆえの言葉であり、メシアとして、世を救うはずの先生が、殺される、などという、とんでもないことを言うものですから、うろたえて否定したのだろうと思われます。キリストの使命を理解していなかったからです。
 
人間が人間を思いやることがサタンの所業というわけではありません。この点をシャローム氏は書いていません。シャローム氏は、持ち前の、全か無かという筆致で、また、この記事の冒頭に書いたように、人を人とも思わず、自分の言うことは神や聖霊の啓示だと思っていて、それを訂正できないために、まるで、人間を思うことが神に背くかのような文脈になっているのに気づかないのでしょう。
 
ペテロが先生の身を案じて、殺されることなんてない、と思う気持ちはわかるのですが、ここに、ペテロの思い込みがあるのです。つまり、相手は単なる先生ではなく、キリストなのですから、人間を大事にするだけでは正しいとは言えない場合があるということです。
 
ただの人ではなく、特別の使命を持ったキリストである、という点が、ペテロに欠けていたために、サタンよ引き下がれと、キリストに言われることになったのでしょう。
 

でも、イエスさまはペテロの信仰告白をご自分の父から与えられた言葉として受け容れ、

 
16節は、キリストの使命を勘違いしているペテロの言葉ですし、22節は、キリストの使命について無知であったがゆえのペテロの言葉です。つまり、どちらも信仰告白ではありません。
 
ペテロは、その後、自分がキリストを裏切ったことを知って、激しく泣いたのち、悔い改めたとしか考えられません。
 

またペテロが神のことを思わず、人間のことを思うサタンからの思いをもち、
私の邪魔をする者であるという弱さをも知りつつ、

 
このように、シャローム氏は、人間のことを思うことを、サタンからの思いだと書いています。人間性を大事にせず、人間的共感を必要ないと言っていたシャローム氏らしい発言です。人間を思う気持ちを、シャローム氏は、救いの邪魔だと思っているのでしょう。
 
私が、シャローム氏を評するに、穏やかな言い方になれない理由の一つがここにあります。彼は、反省も訂正もすることなく、何事もなかったかのように、平気で、同じような記事を書き続けているのです。
 

しかし、
イエスさまはペテロを退けることなく、その後も共に歩き、ともに生きてくださいました。

 
キリストがペテロを退けなかったのは、ペテロが、人間的共感に溢れる情感の持ち主で、反省し悔い改めることの出来る、つまり愛のある人だということを、叱ったときも、またその前からも、既に知っておられたからだと思います。
 
人間を思うのはサタンの所業だなどと言う人であったなら、キリストは、ともに歩き、共に生きてくださったでしょうか。シャローム氏が弟子だったら、どうだったでしょう。
 

イエスさまは父なる神によってペテロを義としてくださったことをご存じだったのです。

 
まず、文として、特に敬語の述語の使い方が主語との関わりで、変です。
また、この場合の義は、信仰の義であって、神の絶対の義ではありません。キリストは、ペテロを変わらずに愛し、裏切りを赦し、導き続けたということです。
 

ペテロの心のうちにある神のことを思わず、人間のことを思う、人としての弱さは
イエスさまに従うこと、イエスさまの十字架の死によって挫折をし、砕かれ、
さらに、よみがえられた神の国の王なるイエスさまとの出会い、さらにイエスさまの言葉に従い、
イエスさまから聴いていた父の約束である聖霊に満たされることによって、
イエスを邪魔する者から、神の国の証人、人間を獲る漁師に変えられたのです。


弱いペテロを導き、強い迫害者パウロをも導き救われたように、
聖書は私たちをも神の国へ招き、導いて下さる神の契約なのです。

 
公式のような教理的な記述です。手続きの確認作業のようです。これで、気が済んで、伝道をしたつもりになって、満足するのでしょうか。人を人とも思わず、人間的共感を否定しているシャローム氏は、いつも、こういう書き方しか出来ないようです。
 
決まり文句のような讃美を繰り返す人を警戒してください。そういう人が、人間を大事にしているかどうか、人間性や共感を持っている人かどうか、ということに注意するべきです。その点が、反省し悔い改められる人間かどうか、それは、すなわち、信仰者であるかどうかに深く関わってくるからです。
 
 
次に、彼の前の記事ですが、
 
  神の国の王・・・それは誰なのでしょうか
  
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28694348.html
   by shalom (2018/8/26(日) 午前 10:16)
 
シャロームのコメントは2行だけのようです。(2018年8月29日、午前4:16現在)
 
>心の王座に自分で座っていると、人の心は不安、疑い、怖れで脅かされています。
 
罪と偽善を悔いることも訂正することもなく、心の王座に自分で座っている人が書いています。
 
>ヘロデ王、秀吉の姿は「神の国の王を見失っている」私たちの姿ではないでしょうか。
 
記事は省略しますが、キリストが王家に生まれた人だと強調したいようです。王家に生まれた、ということが、そんなに重要なことでしょうか。そんなことを書かなくても、そんなこと意識しなくても、キリストは救い主なのですが。
 
キリストの出自を超常世界に探っても、信仰を明らかにすることは出来ないと思います。それに、ヘロデ王も、秀吉も、私たちの姿ではないです。シャローム氏は、自らを固定して、そこから、超常を自らになぞらえて、様々な人を裁いてきたのでしょう。
 
シャローム氏の好みそうな記事のようです。「神の国の王を見失っている」・・私たちは、王家であろうとなかろうと、それぞれに、生きてしばしば悩んでいるし、王家の話を語られても、私たちが、それで、生きやすくなるわけでも、安らぎを得るわけでもありません。王家と言って気持ちよくなるのはシャローム氏とその仲間くらいのものでしょう。
 
私たちが生きている現実の人間の有り様を大事にするべきでしょう。超常の世界や、王様の世界に、私たちは住んでいるわけではないのですから。シャローム氏は、いったい、どういう世界に住んでいるつもりなのでしょうか。
 
※ 
 
改めて感じることですが、過去約6年間の偽善的な彼の記事と、それに対する批判によって、信仰の一番大事なところを理解していないばかりか寧ろ反キリストであることが、いよいよ明らかになっているシャローム氏は、自覚がないために悔い改めることもなく、呪文のような彼の教条にしがみついて、知っている聖書由来の言葉、すなわち聖書語を、見繕って並べて信仰者らしさを整えようとするのですが、それは自己満悦のために過ぎないから、見かけだけの空疎な理路と情緒になって散乱してしまうという経過と結果が表れてくるのです。
 
 
(2018年08月30日、同日一部修正)
 
見繕う(みつくろう)
 
 
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