教条に走るカルト
 
 
私は聖書を全部読んだわけではありませんが
聖書には
私が分からない箇所がいくつかあります。
分からないところの理解は保留しています。
 
それを全部分かると言うのが
カルトの特徴です。
だから辻褄合わせに走って
教条主義に陥ってしまいます。
しかも神の正しさだからと訂正不能にします。
 
 教条主義:
 権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、
 杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。
 独断論。
 ▷ dogmatism の訳語。
https://www.google.co.jp/search?ei=aBRvW7b1MYiC8gX8oqPYBQ&q=%E6%95%99%E6%9D%A1%E4%B8%BB%E7%BE%A9+%E6%84%8F%E5%91%B3&oq=%E6%95%99%E6%9D%A1&gs_l=psy-ab.3.2.0i71k1l10.0.0.0.11004.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.fZ2MHSn9-8E
 
人間なら分かるはずのないところも
神は正しいのだから分かると言い張ります。
この「神」ってカルトの彼らのことではないか。
 
問題としたのは
アブラハムが咎のない息子イサクを生贄にするために殺そうとしたのを神が止める
という創世記22章1~14節の話なのですが、
 
神はアブラハムを止めたのだから
神が正しいなら、アブラハムは正しくない、
または、神がアブラハムを義としているけれども、
それは信仰による義であって、
神の正しさのような絶対的な正しさではなく
神がアブラハムを憐れみ赦し導くという信仰の義である。
少なくとも、ここでのアブラハムの正しさは人間には理解できないから、
分かったというのではなく、分からない、または、理解と解釈を保留にするべきだ
と私は言ったのですが、
 
カルトは、神が義としたのだからアブラハムは正しいと言い張ります。
息子を殺そうとしたのを、正しいと言い張るのです。
それで分かったことにしているなら、人間ではないと思いますが、
カルトは、神が義としたアブラハムを正しくないと言ってはならない
と言い張るのです。
 
このように、正しくないと言ってはならない、
という信仰のあり方こそが教条主義の特徴なのです。
 
信仰というものを正しさで貫かなければいけない
という強迫観念があると思います。
 
過ちつまり罪をときに犯しながら、
そのたびに反省して悔い改めて成長するのが、
信仰の道なのですが
 
ここを勘違いしているのがカルトです。
さらには、本当の信仰を知らないために
正しいという条文のような、すなわち教条を
信じ込むしかなくなっているのでしょう。
 
ここが
カルトかどうかを見分ける基本的なポイントでもあるでしょう。
 
あとは何を言っても同じ教条の解釈を繰り返してくるだけです。
 
信仰を与える神は正しいけれども
信仰を受ける人のほうは、罪深く、常に正しいわけではありません。
つまり、人が扱い、また語るところの信仰は、正しいとは限りません。
すなわち、信仰の正しさを、
人が最初から完成したものとして貫くことはできません。
 
もう一度言います。
 
ときに罪を犯しながら、
そのたびに反省して悔い改めて成長するのが、
信仰の道です。
 
全知全能の神は
そのことを既にご存知だと信じるのがキリスト信仰です。
 
 
(2018年09月01日)
 
咎(とが)
 
 
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