カルトの馬脚
私たちクリスチャンを含め神様を信仰する者は、、
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64607759.html
by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
今回、ヨシュアの記事は、カルトに騙されないために学ぶべきことを、反面教師として語ってくれています。悪いお手本だと思えば、学ぶべきところはあるということです。
>
私たちクリスチャンを含め神様を信仰する者は、、。
まだ 求道者と言われる方を含めて、悪魔的思想者を一ミクロンでも容認しないでほしいです。
甘い言葉をその人に与える事は悪魔の食物になり、悪魔的思想の永らえになります。
本当に その人間を神様の元に届けたいなら、お追従も悪となります!
細かいことですが、ナイスポチも悪魔への食べ物となります。
<
批判されたりするときには、離反者を出さないために、信者を脅す、というカルトの一面が表れています。強制はしないが脅迫はするのです。悪魔に手を貸すな、自分の言うことだけに従え、というわけです。
>
更には、あなたはこの人の記事にナイスをいれたでしょう!
この人を支持したのでしょう!と悪魔は迫ってきて、
証拠があるので 人は言い逃れできなくなります。
つまり、悪魔は神さまに これだけの人間が 反キリストを支持していますと
神様の法廷で堂々と証拠を基に 言います。言ってもサタンに責はないからです。
<
現実問題を語らず、悪魔が出席する法定を仮想して、ドラマのように語っています。超常でしか語れないというのは、このことです。この前提として、悪魔の性質を知っている、分かっている、という傲慢があります。この傲慢こそが、悪魔的なのです。
>
前にも言いましたがけっして、サタンの人質にならない言質でいましょう。
イエスさまは 言葉で表現されましたが、父神さまの言うことしか
言いませんでした。 旧約聖書を基本としていたのです。
<
キリストは、旧約聖書を基本としていましたが、言葉だけを語るならパリサイ人がやってきたことです。キリストは、神の子として、パリサイ人が出来ないような、人間についての深い洞察によって語りました。ゆえに、キリスト者が誕生したのです。それを超常の法廷ドラマに貶めているのがヨシュアであります。
>人には良心がありますが、良心は 罪のため 曇ってきました。
と、罪を認めるようなことを言いながら
>良心の本質にある 本心は神様の直のものです。
と言っています。
>
本心を認識できる人間は稀有ですから、凡なる人は聖書で神様を知ります。
聖書は原書は今は無いです。写本の最古を翻訳して現代人は読んでいます。
でも 究極では 聖書を一度も読んでいなくても救いはあります。
それは神様の哀れみによってです。
<
ヨシュアは、凡なる人、というのを想定しているようです。
凡と非凡によって、神を知る方法が違うと言っています。
キリストは、わけ隔てなく、神の前に魂の砕かれた人々を救いました。
キリストは、一方、知識があっても、偽善者に対しては厳しく批判しました。
>
神さまは姿をあらわさない。肉体の目では見えない。
でも 人は神様を神様だと認識できます。
人は神様に似せられて創造されたからです、。
わからない? 意味が、、。
神様は人を全て認識できます、 ただの動物ではない、植物でもない虫でもない と。
人は神様の似姿です、、みなさん、ここ、いいですか?
神様に似せてる造られたのですよね。創世記に書いています。
<
神に似せて作られたのだから、神を認識できると言っています。
作為的な理路の飛躍です。すっ飛ばしの詭弁です。
人は神と相互認識可能なほどのいかなる能力も持ってはいません。
生きて考えておれば分かることなのです。
ヨシュアは、多くの自分の罪を見逃してきたのだろうと思います。
だからまた、ここで、神に対して高慢な口をきいているのです。
こうやって、自らの非凡と、自らの神認識の無謬性を、カルトはすり込みます。
似せて作られたのは自由意志を持っているということです。
>
神様は簡単に人を人だと認識できるのと似たように、
人は神様を霊的に認識できるように創造されていているのです。
<
畳みかけて、神と人、同等発言です。きわめて胡散臭いです。
>
ただし、多くの人は罪によりその機能は発動されていいません。
しかし 認識できた人は聖書上、何人も存在します。
アブラハムも、ヤコヴも、モーセもダビデも、イエスさまも、、イエス様は人であり神様だから当然といえば当然だけど、他にもたくさんいます。
<
神を認識できる人が、どうして、罪を犯すのでしょう。
>
そうなら 現代もそうした 人間がいてもおかしくも不思議でもない。
神様に似せて作られた人は、神様の霊の一部を吹き入れられて生きる者になりました。
神様と人は人類始祖の時は、神様と会話できていました。
その時人は神様が神様だと認識できていたのです。
<
その認識においても人は罪を犯しています。
認識が十分でないから人は罪深いのです。
なのに、こうやって、人間の中に、優越した人物の存在を暗示します。
結局、それは、自分だと言いたいのでしょうか。
実際には、特別な人というのは、人並み優れて、神の前に敬虔な人です。
ヨシュアは、違うと思います。それにしても白々しいすり込みです。
>
人に与えられた霊は異質のものではなく神様の霊の一部なので質が同質です、
同質だから互いに認識できるのです。
全く異質なものなら認識も識別もできなかったでしょう。
<
霊を、物質のように、同質だと言い、だから認識できると言っています。
小学校の理科じゃないんだから、
いかに安っぽく幼稚な根拠であるかが分かると思います。
ここまで、恥をさらして、ヨシュアは、平気なのか。
>
人は神様に似せられているので、認識の能力も神様には劣るけれど神様が認識できることは
ほぼ認識できるようになっているのでしょう。
<
神に劣るけど、ほぼ認識できる、という、いい加減な見積もりをしています。
神を見積もることは、誰にもできません。
>
花を見て赤い花だと認識したとします。
色が赤だと認識できるのは?
人に赤色だと目に映る要素が無いと赤を赤だとみる事ができません。
その要素はあらかじめ神様が人に与えているのです。
自然に備わったのではなく、神様が創造した被造物なので神様は当然認識できています。
人は神様の似姿なので神様が認識できることは人も認識できるように創造されています。
<
神認識を、花の識別に喩えています。安易です。
どれだけ騙しやすい人々を相手にしてきたのでしょう。
馬脚を露すカルトですが、騙されているほうは悲劇です。
神の似姿だから神を認識できる・・成り立ちません。詭弁です。
似姿は、どこまでも、似姿です。同等ではありません。
前の「劣るけど、ほぼ認識」の、いい加減さと同じです。ペテンです。
神は全知全能であると信じました。
人の世界のみならず、宇宙から目に見えない全ての世界までを統べる御方と信じています。
ヨシュアのような安いペテン師に語れる存在ではありません。
>
神様が人を認識できるのだから、人も神様を認識できるのです、、本来は、です。
人が神様自身を認識できなければ、創造した意味が半減します。
半減どころか 無意味です、、人は神様の子の立場ですから、
子が父をしらないはずはないのです。
<
聖書にあるところの、人が「神の子」という言葉を、神に対する人間らしい敬虔をもって、神の家族として愛してくださる、という受け取り方は、決して無意味ではありません。
むしろ、安っぽい理屈を捏造して、認識しました、神の子だから父を認識できる、と説いてしまうことこそ、神について弁えるべきことを何も分かっていない証拠です。神を恐れぬ態度です。
子が父を知らないはずはないと、このように、言ってしまうのは、ヨシュアが、人の前にも、神の前にも、敬虔ではないという証拠なのです。どこまでも、安物の教条に、踊らされている信者たちは、かわいそうです。
>子が神様自身を知る事ができるように創造しているはずです。
神に、あなたの筈(はず)を当てないでください。
>
神さまが神様だと瞬時に識別とか認識できるように人に神様を認識できる要素をあらかじめ
与え備えさせているのです。
その要素と霊で神を感じた事を突合させ、照合し認識する。。それは瞬時です。
人自身があらかじめ持たされているものと一致したら、それが神様だとわかるのです。
だれにも教えられなくてもそれはわかることになっています。
<
子供が辻褄を合わせた空想話のようです。
「わかることになっています」・・どこで決めた?
カルトは、そこを詭弁によって、欺いているのです。
こうやって、完全になれる、というカルトの妄想と煽動は誕生するのです。
これは、神の前に、人が、その身の程を弁えない、という大罪です。
多くの犯罪、特にカルトの犯罪は、このように、神が分かる、神の意志が分かる、神の意志を伝える、神の命令を聞け、という傲慢から生まれてきたのです。
あわれです。神を信じるのに、神の下にある低い自分を知るのではなく、神の高みに昇ろうとする者は。
彼らの尊大さに比べて、彼らの教条が、いかに低いレベルの幼稚さであるかを知ってください。
ヨシュアが妄りに噴き掛ける泡のような唾液の滴を浴びないよう注意してください。
私たちが、神を知るのは、聖書と、人間としての経験によって、温かいものを心に与えられるということです。したがって、そういう受け取り方と知り方は、聖書の文言をいくら探っても、認識と言えるレベルではなく、むしろ、希望に近いものなのです。
(2018年09月22日、同日一部修正)
弁える(わきまえる)
胡散臭い(うさんくさい)
妄り(みだり、濫り)
唾液(だえき)、唾(つば)
滴(しずく、雫)
なのに、こうやって、人間の中に、優越した人物の存在を暗示します。
結局、それは、自分だと言いたいのでしょうか。
実際には、特別な人というのは、人並み優れて、神の前に敬虔な人です。
ヨシュアは、違うと思います。それにしても白々しいすり込みです。
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人に与えられた霊は異質のものではなく神様の霊の一部なので質が同質です、
同質だから互いに認識できるのです。
全く異質なものなら認識も識別もできなかったでしょう。
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霊を、物質のように、同質だと言い、だから認識できると言っています。
小学校の理科じゃないんだから、
いかに安っぽく幼稚な根拠であるかが分かると思います。
ここまで、恥をさらして、ヨシュアは、平気なのか。
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人は神様に似せられているので、認識の能力も神様には劣るけれど神様が認識できることは
ほぼ認識できるようになっているのでしょう。
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神に劣るけど、ほぼ認識できる、という、いい加減な見積もりをしています。
神を見積もることは、誰にもできません。
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花を見て赤い花だと認識したとします。
色が赤だと認識できるのは?
人に赤色だと目に映る要素が無いと赤を赤だとみる事ができません。
その要素はあらかじめ神様が人に与えているのです。
自然に備わったのではなく、神様が創造した被造物なので神様は当然認識できています。
人は神様の似姿なので神様が認識できることは人も認識できるように創造されています。
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神認識を、花の識別に喩えています。安易です。
どれだけ騙しやすい人々を相手にしてきたのでしょう。
馬脚を露すカルトですが、騙されているほうは悲劇です。
神の似姿だから神を認識できる・・成り立ちません。詭弁です。
似姿は、どこまでも、似姿です。同等ではありません。
前の「劣るけど、ほぼ認識」の、いい加減さと同じです。ペテンです。
神は全知全能であると信じました。
人の世界のみならず、宇宙から目に見えない全ての世界までを統べる御方と信じています。
ヨシュアのような安いペテン師に語れる存在ではありません。
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神様が人を認識できるのだから、人も神様を認識できるのです、、本来は、です。
人が神様自身を認識できなければ、創造した意味が半減します。
半減どころか 無意味です、、人は神様の子の立場ですから、
子が父をしらないはずはないのです。
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聖書にあるところの、人が「神の子」という言葉を、神に対する人間らしい敬虔をもって、神の家族として愛してくださる、という受け取り方は、決して無意味ではありません。
むしろ、安っぽい理屈を捏造して、認識しました、神の子だから父を認識できる、と説いてしまうことこそ、神について弁えるべきことを何も分かっていない証拠です。神を恐れぬ態度です。
子が父を知らないはずはないと、このように、言ってしまうのは、ヨシュアが、人の前にも、神の前にも、敬虔ではないという証拠なのです。どこまでも、安物の教条に、踊らされている信者たちは、かわいそうです。
>子が神様自身を知る事ができるように創造しているはずです。
神に、あなたの筈(はず)を当てないでください。
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神さまが神様だと瞬時に識別とか認識できるように人に神様を認識できる要素をあらかじめ
与え備えさせているのです。
その要素と霊で神を感じた事を突合させ、照合し認識する。。それは瞬時です。
人自身があらかじめ持たされているものと一致したら、それが神様だとわかるのです。
だれにも教えられなくてもそれはわかることになっています。
<
子供が辻褄を合わせた空想話のようです。
「わかることになっています」・・どこで決めた?
カルトは、そこを詭弁によって、欺いているのです。
こうやって、完全になれる、というカルトの妄想と煽動は誕生するのです。
これは、神の前に、人が、その身の程を弁えない、という大罪です。
多くの犯罪、特にカルトの犯罪は、このように、神が分かる、神の意志が分かる、神の意志を伝える、神の命令を聞け、という傲慢から生まれてきたのです。
あわれです。神を信じるのに、神の下にある低い自分を知るのではなく、神の高みに昇ろうとする者は。
彼らの尊大さに比べて、彼らの教条が、いかに低いレベルの幼稚さであるかを知ってください。
ヨシュアが妄りに噴き掛ける泡のような唾液の滴を浴びないよう注意してください。
私たちが、神を知るのは、聖書と、人間としての経験によって、温かいものを心に与えられるということです。したがって、そういう受け取り方と知り方は、聖書の文言をいくら探っても、認識と言えるレベルではなく、むしろ、希望に近いものなのです。
(2018年09月22日、同日一部修正)
弁える(わきまえる)
胡散臭い(うさんくさい)
妄り(みだり、濫り)
唾液(だえき)、唾(つば)
滴(しずく、雫)
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