信仰を滅ぼす者(1)
 
   今夜も戸田聡さんの記事を評価してみます。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64602551.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
「 」は、私の言。
 
キリストは、罪によって砕かれた魂の求めに応じて救いを与えました。守っているという裕福な若者の慢心を退けました。そして、守っている者として支配したがるパリサイ人たちによって、殺されました。
 
それから、二千年・・
 
キリストの深い教えを、教えは守れます、教えを守れば天国に行けます、というような行為義認の教え方で、パリサイ人と同様、救われたい罪人を、そしてキリストの心を、貶めることに懸命なヨシュアです。聖書の訳も、教えは守れるという安易な方向に行っているのなら、キリスト教は、滅ぼされつつあるのかもしれません。
 
「ヨシュアは、ただ罵るために、いっぱい嘘を吐いています。」
 
>いきなりの 呼び捨てですか?品がないですね、文章に。文は書き手の品性が現れます。
 
ヨシュアに、文章の品性を語る資格はないと思います。
 

少し前に、戸田さんに、モーセも、アブラハムも、古代イスラエルの大祭司も民と神様の間に立って、仲保者となり、とりなした事を聖書を基に証明していたので、戸田さん主張のイエス様のみという間違った認識は論破しております。

 
恐ろしいカルトです。人間の罪を贖い、神に執り成しが出来る仲保者は、ただ御一人、
イエス・キリストだけです。
 
救い主と、民族の祖とか預言者とか呼ばれる人を、同列に見なしているヨシュアは、キリスト者ではないと思います。
 
旧約が好きで、パリサイ人が好きで、ということは知りましたが、今回、もはや、キリスト教に対しては、冒涜者と言わざるを得ないでしょう。
 
記事を重ねるほどに、反論どころか、外れ具合が明らかになっています。
 
「讃美には、信仰自慢が入りうるという危惧を書きました。
 それは
 理解力がないまま決めつけてくるヨシュアがそうだからです。」
 
「神は褒められることを善しとしないと思う。何故なら神にはその必要などないからだ。」
 

そこに、危惧などと言う言葉は一文字もありありません。言い逃れをするために危惧という言葉をつけています。

 
言い逃れをする必要など全くないところです。
 
付け加えると、とにかく神を讃えなければ、というのは、まるで、罰が当たらないように、という、動機に近く、信仰を脅迫に変えてゆく原初であり、動機として不純でもあります。
 
>戸田さんは、神様への賛美を全否定しているのです。
 
讃美を全否定するつもりはありません。しかし、讃美しまくる人の中には、おかしい人がいるのは事実ですし、上に述べたような危惧があります。
 
讃美をするな、とか、讃美は禁止、とか言っているのではありません。危惧があるということを知ったうえで、それでも讃美したいなら、祈りと共にするべきであります。
 

神様は賛美される必要も無いとまで賛美を全否定しています。 この戸田さんの主張も私は既記事で論破しております。賛美する役目の天使を神様は創造していたことや、聖書に多くの賛美の文章があること、などを 言い渡していました。

 
ヨシュアは、論破と言っていますが、議論には、真実追及はあっても、論破はないのです。ですから勝ちを目指し、論破した、論破した、と言っていること自体、議論をする資格がないことを表しています。実際、ヨシュアは罵るだけで、全く議論にも話し合いにもなっていません。
 
神は在って在る者ですから、讃美される必要がないことは自明であります。
 
今度は、天使と人間を、同列に置いています。傲慢が加速しています。
 

聖書からと、実生活の信仰の中で、そして祈りのなかで経験と知識と啓示と他者の証しなど、を照らし合わせて知性で理解し心情で納得して、ああそうだ、そのとおり神様とはそういう方なのだ、と 確信できた事を言っています。

 
ヨシュアの実生活の信仰というのは、教条主義による言葉に縛られた世界ですから、弁明にはなりません。神を知ったと言いながら、説得の言葉ではなく、訂正不能に罵りの言葉を発していることは、反対者に対する態度に表れているのです。
 
>全能なる神さまの、無限の全体像をすべてわかるとは、明言したことはありません。
 
ヨシュアは、神を、分かる、知っている、認識している、ということの罪の重さを、まるで理解していません。すべて分かるのでなければ言えないような、神の代弁者のような横柄な態度に慢心しているからこそ、反対者に罵詈雑言を吐くのです。
 

全体で無くても、神様をわかった!知った!という事が異常なのでしょうか?
40年以上、長い間、戸田さんは自称信仰者とのことであるのに、神様が解らない、と言う、どちらが異常?なのでしょうか? 

 
決めつけて訂正不能にしているからこそ、反対者を罵るのであり、ゆえに、訂正不能にした時点で、アウトだと思っています。
 

全てでなくても たとえ少しでも 神様の何かがわかった方が良いと私は思います。
戸田さんは 実際 何もわからない人でしょうが、 

 
少しでも・・と、今さら、謙虚ぶっても、ヨシュアが、反対者を罵った事実は消えません。
 
決めつけて、訂正不能にした時点で、アウトだと思っています。
 
ヨシュアの横柄ぶりは、相手を、何もわからない人でしょうが、と
今言っているのが証拠でしょう。
 
>他の人で必要以上にへりくだっている必要は無いと思っています、
 
実際は、決めつけて訂正不能にしているのだから、へりくだる姿勢は全くないと見るべきです。
このヨシュアの発言は、全否定を部分否定に言葉だけすり替えるという詭弁です。
 
ヨシュアに、へりくだる姿勢は、少なくとも反対者には、全く見られませんし、
私も、けしからぬヨシュアに、へりくだる必要は感じていません。だから呼び捨てです。
 
>へりくだりすぎて神様が寄り添ってくれている事すら、わからなくなるより良いと思います。
 
神の前に、へりくだりすぎて分からなくなることはありません。何を言っているのでしょう。
信仰者には、絶えることのない、神を求める心があるからです。必要だからです。
ヨシュアは、ホント、おかしいことばかり言う。
 
>人も生まれて成長して完成します。
>そうなるように神さまは人を完全に創造しています。
>ただし、完成するかどうか?は人自身の努力いかんです。
 
成長が、努力いかん、であるならば、
造られたとき、完全になってはいないということです。
また、何を言っているのでしょう。詭弁ばかり。
 
>人間は自由意志を与えられているので、自分を完成する過程で
>自分の自由意志で努力し成長しないといけません、
>もちろん、父母や友人や師や社会などからの助けをもらいながら、です。
 
そして、信仰を、深みのない当たり前の、道徳話に貶めています。
 

神様の創造は善しとされています。神様の創造は神さまが完全であるように被造物に於いては完全です。そうでなければ神様の創造は失敗ということになります。

 
そんなこと、あなたが決めることではありません。愚か者、と言っておきます。
 
神のことを、人の辻褄で語ろうとするから、こういう話になり、神の創造に、そうでなければ失敗などと、人が条件を付けてしまう言い方になるのです。
 

人の罪の事は堕落と言いますが、神さまの創造は完全だったけれど、人に与えられてあった自由意志により罪を犯したのです。すべてをコントロールされたら、人はロボットであり人が人でなくなってしまします。

 
これが、言葉に縛られた者の宿命でしょうか。神の完全を言い張るために、こじつけの無理な合理化をしています。神の自由意志は完全です。人の自由意志が罪を犯すことは、人とその自由意志は完全ではないという証拠なのです。
 
神には、神の計画があり、それは神秘として秘されているのです。それを身の程も弁えず、人が語ろうとすると、こういう、見すぼらしい言説になってしまうのでしょう。
 
私に向けた、識別できていなかった、知らない、知らなかった、わからなかった、が並んだ文章が続いて、
 

また、言葉をずらして言いのがれしようとしています、でもだめです私は騙されない。
「神は神格を造れるが、造った神」? あなたは最初の言葉では神格など一言も言っていない、

 
キリストと聖霊は、神格ではないのでしょうか。私は三位一体を説明するために、仮定の考え方を述べたのですが。
 

ワンパターン。知恵が乏しい、無知をあらわして、カルトも真っ青になる大嘘、ダメ人間ですね、、あきれる、ウソだらけ、

 
冷静に言えなくなると罵詈雑言が並びます。
 
(位格は)
>神様に原初から備わっている性質
 
また、見てきたようなことを言っています。
神の性質つまり御心は、今の信仰生活において、人には暗示されるだけです。
 

決めつけていないなら、論破された事を修正しなさい。仲保者と賛美と、他人の妻の聖句の事です、、忘れたか?

 
怒鳴っているかのようです。
はっきり言って、あなたに、うんざりして去る人はいても、
あなたに論破されるような人はいないと思いますよ。
 
「私は決めつけてはいません。」
 
>あなたは、決めつけているではないですか?私をカルトだと!。 
 
決めつけではなく、根拠があっての批判です。ずっと根拠を書いてきたと思います。
あなたヨシュアは、どんどん、悪くなってゆくようです。
 
「よっぽど余裕がないのでしょう。」
 
>はは、、笑ってしまいました、戸田さん、、。
>私はふつうの精神状態ですけれど、
 
こういうのが、いちばん危ない・・。
 
>右往左往して、三流詩人が書きそうな、無知で無論理、頭大丈夫ですか?、
 
罵詈雑言、また、入りました。
 
>罵詈雑言? 事実だから仕方ないでしょう。
>私は、別に大げさにしてはいないし、騒いでもいませんが?
 
こういうのが、いちばん危ない・・。
 
>忠告です、あなたの言葉を根拠にした忠告です。
 
忠告など求めてはいません。あなたからの、貶めと、罵詈雑言です。
 
 
(2)に続く
 
 
※ 前の記事とこの記事で思ったこと
 
自称ヨシュアのようなカルトでなくても、シャロームのような偽善者でなくても、キリスト者は、超常奇跡が起こって、スパッと救われたい気持ちも、信仰が教科書のように一度にぱっとわかるような理路があったらいいという気持ちも、心のどこかにあるのです。しかも最終的な救いとか、世の終わりとかは、それこそ、超常からの奇跡のような話にしかならないということもあります。
 
しかし、そこを短絡して、分かったような気持ちになって、それが信仰であるかのように思い込んでしまうと、カルトや偽善者になってしまいます。つまり超常願望は誘惑なのです。
 
いつ来るか分からないところの、個人の終末と、聖書のいう終末が来るまでの長い時間、私たちが人生と呼ぶ大部分の時間、人間として生きることは決して超常の理解が前提になるわけではないのは、聖書においてキリストに救われた人々を見れば明らかなのですから、それがどんなに無駄に思えても、打開するのに超常趣味に短絡するようなことがあってはいけないのです。
 
そういう人間の信仰の堕落しやすい性質を自覚し、それを共有して、ともに力を合わせて警戒するべきでしょう。それが、信仰の人間力だと思います。
 
神の国は、人間が超常を理解するところではなく、人間が人間らしく努力するところにあるとしか言えないでしょう。主イエスは、いつも、人間のがけっぷちに寄り添っておられるからです。
 
 
(2018年09月26日)
 
 
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