自己満足の偽善(1)
 
   「うらみ」は満たされない欲求?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28731630.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者は、自分が批判されることを、相手の恨みによるものだと決めつけて、自分は悪くないと正当化します。そうして、たまに、そのことを、記事でもコメントでも、全く弁明できなかったのに、確認しようとしては、できなくて、また、黙りこむという始末です。
 
まず引用部分から
 

私自身、闇の中で復讐の牙をとぎ、恐ろしい燐光を発する眼でにらんでいる怨霊が、
実は醜い願望が達せられないことを怨んでいる私の邪悪な顔だとわかって、
愕然としたことがある。
根が臆病な私は、自分が相手を怨んでいることを認めることができず、
相手が自分を怨んでいると思い込んで恐れていたのである。

 
ここでは、公共の場で、偽善を隠蔽して、全てを相手のせいにする卑劣な偽善者のことを記事にしています。シャロームは、恐らく、自分の恨みに、気づいたことも、愕然としたことなど無いと思います。実際には、ときに遠回しな言葉で相手を罵って、ストレスを解消できずに、不感不応というやり方しかできなくなっています。今回、シャロームには、弁明の余地がないことを彼のコメントと記事が証しています。
 

それに気づいてからしばらくは混乱に陥ってしまった。
私は本書によって読者が、そのような混乱に陥ることなく、
「うらみ」を洞察できることを願っている。

 
シャロームは、自らの恨みを洞察したことがありません。書いてくる文章に、それは表れておらず、何の変わりもない白々しさだけを出してきているからです。
 
相手にだけ、恨みと洞察しろ、という、シャロームの企みは、根腐れに相応しい汚さで、記事を書き続けることに表れています。正常は神経を持っている人には出来ないからです。
 

第二部は心理臨床家の目から見た、「うらみ」と日本文化とのかかわりであるが、
日本の歴史や文化から、われわれの「うらみ」の心理の由来を
理解しようとする試みという方が適切かもしれない。
まず、日本の歴史や文化に重大な影響を与えた御霊信仰と、その意味について述べた。
御霊信仰は古代日本人の「うらみ」の心理を理解する絶好の資料であるだけでなく、
現代日本人にも少なからぬ影響を及ぼしており、今なお現代的意義を失っていないからである。

 
シャロームは、恨みを洞察し理解しろ、と言いたいようですが、彼自身が、自らの偽善を正当化している限り、それは起こりえないことなのです。そもそも、批判は、恨みに基づくものではないのですから、どこまでも、キリストがパリサイ人に対していったように、不法を、不法と言い続けることです。
 
>《shalomのコメント》
 

私の心に残った印象は次の言葉です。
「うらみ」はかならずしもおどろおどろした否定面ばかりではなく、
人間存在の根源にふれる積極的、肯定的側面もある」
わたしたちが本当に生きがいのある充実した人生を、自分のものにするためには、
どうしても私たちの本能を満足させなければなりません。
なぜなら、本能とは人間が生きていくための基本的な欲求だからです。
本能はそれがどのようなものであれ、否定したり、抑圧されたりすると
必ず心身に障害を招いてしまうのです。
今日心身症といわれる病気が多くの人を苦しめています。

 
シャロームの暴論は、心身症を、本能が満たされないところの、欲求不満の現れだと言っています。対人関係の複雑さをまるで考えに入れず、心身症は患者が悪いといっているのです。この、洞察力ゼロの、身の程知らずを肯定することは、彼のようになるということなのです。
 

さて、本能は次の三種類に分けることができると思います。
第1に体に関する本能として食欲、性欲、睡眠欲などの欲求です。
第2に心(魂)にかかわる本能として互いに愛し合いたいという欲求です。
第3に霊にかかわる本能で生けるまことの神を求める欲求です。

 
そうして、本能を三種類に分類しています。こういうふうに偽善者は、自分を悪の圏外において、迷惑な説教をするのです。
 
さて、本能は、経験によらない動物に共通するものですが、第2の、愛し合いたい、というのは、本能でしょうか。ここでも、人間関係の複雑さを、シャロームは、あっさり無視しているのです。
 
第3の、神を求める欲求になると、経験によらない、なんてことはないはずです。神の導きは、経験に表れてくるのです。シャロームは、自分は生まれながらの神のしもべだとでも思っているのでしょうか。それが前提で生きているのでしょうか。恐ろしい人です。
 

これらの本能はそれぞれ独立したものではなく、互いに関係し調和しなければならないのです。
これらの本能が調和し、満足させられてはじめて、試練や困難がなくなってしまう
という訳ではありませんが、人は本当に充実した人生、幸せを感じることができるのです。
これらの本能が人は父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神という
三位一体の神にかたどって造られたことを証ししているのです。

 
シャロームは、彼の言う本能なるものが、彼においては、三位一体で満たされているとでも言うのでしょうか。そのような自己満足の上に充実や幸せを感じているなら、偽善者の根腐れと言うしかないということです。このように、自分は完成しているという自己満足と訂正不要の自覚こそが、キリスト信仰を、シャロームのような根腐れに向かわせるのです。
 

これらの本能のうち私たちが人として生きていくうえで、
もっとも大切な本能が霊にかかわる本能であって、人を宗教的な存在としている欲求なのです。
ですから、宗教は弱い人間の夢、たわごと、気休めではありません。
また科学が進歩し生活が豊かになれば消え去ってしまうような幻想に過ぎないと
言われてきましたが、決してそうではありません。
神によって与えられた本能ですから、なくなることもありませんし、
否定することもできないものなのです。

 
本能が霊に関わるといい、宗教も本能の産物であるかのように言っています。
 
宗教が弱い人間の夢でないならば、宗教は、自分のような強い人間の現実だとでも言うのでしょうか。それこそが、思い上がった宗教者?の、たわごと、気休めなのです。
 
信仰は、人間に弱さの自覚に基づく現実の生き方を与えるものです。シャロームの邪悪な言説に惑わされないでください。
 
それこそ、本能が宗教になっているのは、欲望によって偽善を働き、欲望によって、それを、人に隠し、神にも隠そうとしているシャロームのような、神を恐れる心を持たないケダモノの所業であります。それら一切、神はすべてをご存知です。
 

私たちが変わることのない愛を求め期待したり、正しいことを願ったり、心の安らぎを求めたり、
死を恐れ、救いを求めたり、何事につけ不確かであることに不安を覚え、
確かな拠りどころを求めたりしていることの中に神を求める霊的本能が働いているのです。

 
愛と救いを求める心は、通常の表現においても、高等感情と、高等な思慮によるものであり、本能とは言いません。
 
本能に「霊的」という言葉を付ければいいと思っているシャロームの安易さです。多くの事柄において、シャロームには、思慮深い配慮がありません。彼は、独善的な妄想によって慢心しているために深い思考と配慮が出来なくなった人なのです。
 
前には、心身症の代わりに、「霊心症」などという造語を使っていました。「霊」という言葉を付けて立派に見せようとしているだけなのです。騙されないでください。
 

この神を求める霊的本能こそが、人は神によって造られたことの確かなしるしなのです。
「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)のです。

 
ここだけ、人が神の似姿、ということを利用しています。信仰は経験を通じて導かれる、ということを無視しているシャロームの、自分は無条件に完成していることを示すための言説に惑わされないでください。
 

生けるまことの神は、人間の考えや願望、想像の産物ではありません。
私たちがその神を信じるとき、生きる意味、目的を見出すことができるのです。
聖書には次のような言葉があります。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、
そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ
陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、
親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。
彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、
自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
                 (新約聖書ローマ人への手紙1:28~32)

 
神を信じるなら、無条件に人間のすべての機能が整う、というシャロームの考え方こそが、彼を完全救われ妄想に導いています。何もしなくても、何をしても、自分は救われる、という妄想から、一切の悔い改めをしなくなった者の末路と言ってよいでしょう。
 
まさに、
無価値な思いに渡され、そのため、してはならないことをするようになり、あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲、
となっているのです。
 
自己正当化と訂正不能に魂を売り渡したところから、それが、死に値するという神の定めを無視して、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。これは、偽善者とカルトに共通するところです。
 

イエスさまは「わたしを見た者は父(神)を見たのである」(ヨハネ14:9)と言われました。
私たちの限られた知識によれば、到底理解しがたい不思議なことですが、
あの十字架の上のむごたらしいイエスさまの姿に、
神の聖なるご性質、永遠不変の愛、全き正しさ、義が表されているのです。

 
理解しがたい、と言いながら、永遠不変の愛、全き正しさ、義が表されている、と大仰に讃美しています。信仰によって理解しているとでも言うのでしょうか。一人の人間が、理解の仕方を同時に二つ持てるのでしょうか。つまるところ、シャロームの信仰は、神へのお世辞で出来ていて、そこで無条件に完成した、と言いたいのでしょう。それを、彼の、表れてきた言説と、今までの行為が、証しているのです。
 

神はイエスさまの十字架の死と復活によって、わたしたちを生きるようにしてくださったのです。
イエスの死と復活という出来事によって示された神の愛は、私たちに惜しみなく注がれ、
わたしたちを生きるようにしてくださったのです。

 
シャロームの言説には、十字架の死と復活が何度も出来てきますが、その奇跡だけを必要として、彼は、共感は必要ないと言っていました。人間の救いに、人間性は必要ないというのでしょうか。そのことを、彼は訂正していません。
 

イエスさまの死と復活は不安、失望、恐れに打ちのめされていた弟子たちを
死をも恐れぬ者と変え、弟子たちは殉教の死を遂げたのです。

 
シャロームの教条主義の特徴です。死と復活の奇跡を讃え、死をも恐れぬ者に変わることも、人間の勇気とか愛とかいうこととは、まるで関係ないこととして、信仰でスーパーマンになったかのような、超常奇跡と見なしてしまいます。つまり、「霊」と蘇りで飾っただけの、潤いの水がなく血が通っていない人間離れの教条信仰なのです。
 
シャロームは、キリスト信仰者を自認しながら、その心に共感もなく、深い思慮もなく、言葉を並べただけの、嘘と偽善と隠蔽の、現代のパリサイ人なのです。
 
救われることをキリストの肉体の復活という奇跡としてだけ喜ぶのは、他者を教えを受ける低い者と見なして、理解してもいないくせに自己顕示欲で神聖の言葉をもてあそぶ大袈裟が好みの偽善なのです。
 
真実の信仰は、キリストに悲しみの共感を抱く出会いを経て、誕生しています。
 
 
(2)に続く
 
 
(2018年09月28日アップ、同日一部修正)
 
蘇り(よみがえり)
 
 
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