自己満足の偽善(2)
 
   「うらみ」は満たされない欲求?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28731630.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、人間離れした超常現象だけに信仰を求めていることが見えてきます。
 

使徒パウロは次のように書いています。
使徒パウロは在世中のイエスを直接知らない人なのです。しかも、かつては
イスラエル社会のエリートの地位にあり、イエスを信じる人々を迫害し、投獄し、
死にいたらせていた人のなのです。そのパウロ自身も殉教したのです。
そのパウロの言葉なのです。

 
パウロは、パリサイ人でありましたが、悔い改めて、使徒となった人です。
シャロームは、悔い改める心を見せたことがありません。
 

新約聖書コリント人への第1の手紙15章12~19節
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。

 
だから、シャロームのような人は、二千年前の肉体の復活にこだわるのです。二千年前の甦りに縋って自分は救われると信じ込んでいるのです。
 
そのような儀式的な考えと、超常の奇跡にこだわることで、今、いちばん大切にするべきことを、ドブに捨てているのが、シャロームの信仰だと思うので、誰も真似してほしくないから、批判を続けています。
 
シャロームは、たとえ、キリストが再臨しても、人間性がないので、それを理解しないだろうと私は思っています。
 
自分を小犬と言った女性も、衣に触った女性も、十字架上の犯罪人も、神とキリストに対する敬虔な人間の態度を心得ていました。
 
敬虔な姿勢の代わりに「(笑い)」「ハハ」「ププ」「けらっ」と書いた者たちは、それが、滅びのしるしだということに気づかないのです。
 

なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

 
肉体の奇跡にこだわって、魂の奇跡を疎かにするシャロームは、例えば、どこか外国で死者が蘇ったという話を聞くと、それを盛んにブログで宣伝していました。事実を確かめようもないのに、それが信仰だと思っているようでした。
 
そして、日夜、コメントを削除し、偽善の証拠を消すことに専念していたのです。超常の奇跡にこだわるシャロームの信仰は、日常の現実を台無しにすることで、自己満足だけに集中してゆく経過と結果しか生まないのです。
 

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、
キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは
すべての人の中で最も惨めな者なのです」とパウロは書いています。

 
自分は、肉体の復活を信じていると、豪語したいようです。
 
復活については、肉体の復活はあったかもしれないが、この現実世界を見ると、精神の不滅すなわち霊的復活しか信じられないでいることをお赦しください、と祈ったことがあります。その結果は、神にお任せするしかないことです。
 
ただ、私の乏しい経験において、肉体や物に起こる奇跡にこだわる者たちには、ろくな人物がいなかったということをここに記しておきます。
 

今日も、わたしたちがイエスさまをとおして神の聖、愛、義にふれる時、
ありのままの自分、他の人、物事を喜びをもって受け容れることができるように
変えられていくのです。
なぜなら「神は万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)からです。

 
シャロームが、神の聖、愛、義に触れているなら、非と罪と悪を隠蔽して、善に見せかけるなどという偽善を犯すことはないはずです。
 
シャロームは、(ありのままの偽善者としての)自分を喜びをもって受け容れることを信仰だと思っているようですが、善に見せかける偽善自体が既に罪を認めず、赦しを拒むことですから、このシャロームの言は、白々しい詭弁であり、このような記事を書けば書くほど、滅びのしるしが増し加わることを知らないことを示しています。
 

信仰とは決して気休めでもなければ、わけのわからないまじないでもなく、
ましてやご利益や葬式のためでもありません。

 
シャロームにとって、悔い改めのない無条件の救いが信仰のようです。それは、いかなる道理にも反していて、魔法、まじないに近く、まともでないのに、まともだと思われる、超常の仕組みを知っている思い上がりで、聖書の先生として尊敬されたがるような、精神的な利益を求める態度そのままなのです。
 

神をも人をも愛することのできない私たちを、あえて愛してくださる神を信じることが信仰です。

 
違います。私たちは、神の愛を知るゆえに、不完全でも、神を愛することが信仰です。
 

私たちの愛は神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものでしかなく、
互いにすれ違ったり、傷つけるものとなってしまうのです。
神の変わることのない確かな愛をもって愛されていることを知ってはじめて、
私たちは互いに愛し合うことができるように変えられるのです。

 
そのことに、愛されない偽善者となって、真っ向から背いているのが、シャロームです。
 
それを正当化するために、記事を書いてきますが、弁明が成り立ったことはなく、滅びのしるしだけを表す経過と結果になっているのです。シャロームは、他者を、少しも本気で愛してなどいないと思います。記事のすべてが、彼自身の利益ために書いているだけだからです。
 

愛し合うということがどういうことであるかという誤解、互いに自立できない自他未分化関係から生じる共依存、共支配関係からも解放されるのです。

 
この「未文化」という言葉によって、どれだけ、シャロームは、批判者を愚弄してきたことでしょう。未分化つまり未熟だから、自分に依存して、かまってくれないことへの恨みから批判している、ということを書いてきたのは、もうずいぶん前のことですが、今も変わらないことが明らかとなりました。彼は、人の話を、まるで聞いていないのです。
 
だいたい自分が依存されるような人物だと思えること自体が呆れた話なのです。「依存」という言葉をどこかで見つけたことから考え出した言い逃れなのです。知識を本能的に保身のために使って、さらに恥をさらす経過と結果となっているのです。しかも、もうずいぶん前から。
 

私たちが生けるまことの神を知らないとき、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめ、
ただ欲望を満たすことをむさぼり求め、刺激を求めたりして、
また、互いに愛しあいたいという本能をも汚し、また物を得ることによって心の不満、空洞、
霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

 
ただ欲望を満たすことをむさぼり求める、ということは、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめることでしょうか。文脈が変になっています。本能に神を求めることを入れたためのゆがみであり、それは、他でもないシャロームの
 
>第2に心(魂)にかかわる本能として互いに愛し合いたいという欲求です。
>第3に霊にかかわる本能で生けるまことの神を求める欲求です。
 
という言説の前提が間違っているからです。人が神を求めるのは、本能ではなく、生き方に悲しみ、生き方を考える、という経験からでしかありません。
 

霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

 
また「霊的」を付けていますが、充実した生活についての陳腐な感慨です。これで、人が神を求めるようになると思っているのでしょう、彼は、深みのない自己満足の記事を偉そうに書いてきます。日々、偽善を隠しながら。
 

そして、あの「お忙しいですか?」と心の空洞を埋めようとしているのではないでしょうか?
パスカルは言いました。「神によって造られた人間の中には神のかたちを
もってする以外に決して埋まらない空洞がある」と。

 
哲学者が、人間の現実の空しさを認める言葉に対しても、あり余る暇を滅びに費やして、自己正当化に利用することしか出来ないシャロームは、その言葉面を深く掘り下げることが出来ません。深みがない、これは、隠し事とともに暮らすシャロームの記事の変わることのない現実として続いています。
 

あなたはどのように思われますか?
「人はパンだけで生きるものではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」(マタイ4:4)
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)
【口語訳】新約・ヤコブ4章1~6節
4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。
あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。
あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
 :4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と
聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
4:6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。

 
言っておきますが、彼の偽善と隠蔽を考えるならば、
シャロームは、命のパンを食べているとは思えません。彼は、保身の欲情によって罪を犯し、それを隠蔽しています。天国も神の義も、貪ろうとして得られず、シャロームは、自尊の快楽だけを求めています。そして、騙されて世の友となる人を欲しがっています。私は、彼は神の敵だと思います。偽善者が、偽善者のまま神のしもべになることはありません。
 
神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う神に、シャロームは、真っ向から背いているのです。だから、滅びのしるし、と書きました。滅びゆく者に好意的に関われば、その人も滅びるでしょう。
 
シャロームの説教話には理路がありません。ただの結論の言い張りに終始しています。理路を整える気持ちのない文章は説得力がありません。だから、今までも、これからも、彼は、誰も説得することは出来ないでしょう。社交の世辞だけが時々返ってきて、それを彼は喜ぶのです。彼が平気でいられるのは、彼が共感も説得力も必要としていないからでしょう。
 
つまり、シャロームは、神の言葉だから、神の啓示だから、という理由で、理路も共感も説得力も必要としないのです。そのことがもたらす経過と結果が、本人だけが全く自覚しないままで、今、進行中なのです。
 

 
 
私たちは人間です。超常や神聖や聖霊については、教理を語ることがあっても、そのものについては人間の手に負えるものではありません。
 
丁寧語と聖書語で讃美を振り回すところに、信仰は、成り立っていません。
 
神秘に属する言葉を弄して、整えたと思うところに、信仰は成り立っていません。
 
 
私たち信仰者は、福音を伝道するにあたって、人間という存在の不完全さを伝えることが大切です。それは、つきつめると、悲しみにつながり、孤独につながることがあります。絶対孤独は、絶対者によってのみ解放されるでしょう。
 
また、福音すなわち良き訪れは、悲しみを知る心に訪れます。
 
人間の良心で受け取れるところに信仰はあります。
 
人間の良心で受け取れないところには、人間が受け取れる信仰はありません。
 
今悲しみのない人は知識と言葉を蓄えれば、将来、役に立つことがあるだろうと思います。しかし、知識だけで信仰は成り立ちません。言葉だけで信仰は成り立ちません。人間としての経験の中で生きてくるのが信仰です。
 
信仰は、人間を超えることではなく、信仰は、人間を人間らしくするためにあります。
 
 
(2018年09月29日アップ、同日一部修正)
 
蘇り(よみがえり、甦り)
 
 
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