聖なる体験?
 
 
神と名乗る者が、
いかにも聖なる者?のように現れた
という体験をしたら
あるいはそのような気分になったらどうする?
という話を前にしたので、
以前から考えることがあって
困ってもいたところの
聖なる体験
というものについて改めて考えてみます。
 
聖書の預言と言えば
旧約聖書にあるような
神が直接語りかけたり
夢のお告げであったりします。
 
また一方で
信徒も預言や異言をすることがあるようなことが
聖書には書かれています。
 
そこで
使命感に燃える?ところのキリスト者は
自分も預言をすることがありうるのだ
と思ったりするわけです。
 
そうして
一種の忘我状態を待ち望んだりします。
その流れで
あるとき陶酔気分だったり
聖句を読んで気持ちがよかったりしたときに
神の啓示が来た
と思ったりするでしょうか。
 
一種の興奮状態から
神を讃美する異言というものや預言として
命令口調になって聖書語を並べたりするでしょうか。
聖霊体験なども似たような経験でしょうか。
 
本当に聖霊や神の啓示があったのなら
先ず迂闊に声に出せないくらいの敬虔が必要でしょう。
何故なら神が直接働きかけてくるのですから。
 
そこには
ヨブ記などにあるように
雷や嵐に遭うような衝撃があるはずです。
そしてその人は今まで以上に
神の前に恐れおののくはずです。
 
その恐れは
その人の口を慎ませるはずです。
 
聖なる御方を直接体験することが
街の通りで親切に道を教えてもらうような
優しく気持ちの良い社交のようなものでありえましょうか。
否です。
 
 
ちなみに私は
神の声を聞いたこともないし
夢のお告げを見聞きしたこともありません。
私が語ろうと心がけているのは、
人間としての感受と思考による言論のつもりです。
そこを超えることは神の領域ゆえ人間の手には負えません。
また
聖霊が来たと分かった時も経験していません。
私ごときが聖霊が来たかどうか分かるとは思えないです。
癒やされたことを経験していますが、だからといって、
超常からの行為を決めつけることはしないほうがよいと思っています。
 
もし聖霊なり啓示が直接降りた時には
想像ですが、聖なる御方にとらえられて
使命が終わるまで離れること叶わず
そのとき私は、
もはや私ではなくなるのかもしれない
と思うくらいです。
 
つまり
聖なる直接体験を欲しがる前に
私たちは
聖なる御方が来たのかどうか
自分に分かるだろうかと考えるべきなのです。
そういう思考こそが信仰者の敬虔というものなのです。
 
信仰者は
人間として手に負えない超常や完全や絶対は神に任せて
人間として手に負えることを信仰として追求するべきです。
 
一方で
何らかの人生の成り行きや
聖書を読んだときの感動や
言葉やアイデアが浮かんだ時などに
これは導きかもしれないと思うことはあるでしょう。
そのような信仰の体験を
自分で勝手に聖なる超常直接体験と結び付けるのではなく
柔和で敬虔な心ならば
ひょっとしたら神様からの賜物かもしれない
という喜びをもって受け取り感謝して
さらにその後の導きを祈る機会とするのがキリスト者だと思います。
 
 
(2018年10月24日)
 
迂闊(うかつ)
 
 
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