ヨハネ書:ニコデモ
 
 
ヨハネによる福音書から、もう一度ニコデモについての記事を引用して考えてみます。このように同じ聖句をまた考えるということは何度も繰り返すことになるのでしょう。
 
私の現時点での見解に過ぎません。
 
書名のない引用聖句は、ヨハネによる福音書です。
 
ニコデモは、パリサイ人の中で唯一例外的な言動をしています。
 
パリサイ人らしい教条主義の表れと、それだけではないところとが描かれています。
 

3:1-2
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

 
ここだけだと、民衆に注目されていたキリスト対して、儀礼的に一応の世辞を言っているだけのようにも受け取れます。ニコデモは、まだ、神からこられた教師、について理解して讃えているわけではないのです。
 
儀礼は、当てになりません。ユダは、裏切るとき、キリストに接吻しています。
 
彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
(マタイ26:49)
 
また、ニコデモは、ここでは、夜、独りで、キリストのもとを訪ねているようです。キリストに関心をいだきながら、怖かったのでしょうか、他のパリサイ人には内緒だったのでしょうか。それとも、偵察か様子見とでも言ったのでしょうか、あるいは、そう言われてきたのでしょうか。
 

3:3
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

 
私たちでも、ぼんやりと、信仰によって・・ということだろうか、くらいのことは考えますが、ニコデモは、パリサイ人として教条主義の教育を受けてきたので、頭が硬い、ということが分かるでしょう。生まれることを、母の胎から、としか受け取れていないようです。
 

3:5-6
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7-8
あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
3:9
ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。

 
ここは、私たちも、肉のことではないが、水と霊から生まれると言われても、ピンとは来ないわけです。風の喩えも、霊も風も見えないものだけど・・・と思うけど、理解まではいきません。
 
ニコデモは、教条主義に固まって、現実の儀式や行いに心が囚われているので、分からないとは言わず、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と言っています。
 
3:10
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
 
キリストから言えば、当然、わからないニコデモ、ということになります。
 

3:11-12
よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
3:13-15
天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

 
人のことを言っても分からないなら、神のことを言っても分からないであろうことを、キリストは承知しています。そして、たとえ、人が、今、キリストを理解しなくても、救いは成就されるという預言です。
 
この引用部分は、キリストからの、前半は叱咤、後半は激励、という命を賭した救いのメッセージです。
 
「 
7:46
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
7:47-49
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
7:50-51
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
7:52
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

 
パリサイ人たちの集まりで、ニコデモは、イエスの言い分をもっと聞くべきといっています。ここで、ニコデモの、他のパリサイ人と違うところが表れています。
 
下役たちも、これまでになかったと言っていることから、イエスが、ただ者ではないことに気づいていたのは、ニコデモだけではなかったのです。
 
しかし、ニコデモ以外のパリサイ人は、律法を弁えない、ガリラヤ出、などと決めつけて、キリストを預言者でもないと言って、教条主義の腐ったところをあらわにしています。
 
このように、パリサイ人などの教条主義というのは、間違いのない教えを語ったつもりで、道理も理屈も弁えたつもりで、知ったかぶりをするけれど、その思路と視野は狭く、言葉と行為のみに固執して、心がなく、何か異なることを言われると、新しい視野の領域を持ち得ないために受け止めきれず、ただその時その場で、不快という感情でしか反応できなくて、言葉の尻を振り回し、嘲笑うか罵るという一方通行になるようです。
 

19:38
そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
19:39
また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
19:40-42
彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。

 
十字架の後、復活より前です。ニコデモは、弔いの薬を携えて来ています。パリサイ人たちが殺したキリストをパリサイ人のニコデモが弔いに来る、ニコデモの立場が、はっきり表れてきました。といって、ニコデモがキリスト者になったかどうか、聖書には書かれていないので、暗示的な聖句だと思います。
 
ニコデモは、ただ礼儀として悼むために来たのでしょうか、それだけなら、パリサイ人たちが死刑にしたキリストの弔いに参加することは、パリサイ人であるニコデモにとってはリスクが大きいです。何か決心のようなものが芽生えてきているのでしょうか。いずれにしても、ニコデモは、キリストに出会ったことが、忘れられなかったのでしょう。
 
私事ですが、聖書を少し読んだだけでも、キリストの言動は何か心に残る、キリストは忘れられないものを残す御方だ、と思っていた若い頃を思い出します。
 
その後の私の人生は、挫折した失格者であり怠け者です。そのこともブログにはところどころ書いていますが、そこをカルトは容赦なく、ダメ人間だと攻撃してきます。カルトというのは、何なんでしょうね、彼らは、ダメだから信仰が必要ということを理解せず、一生懸命、完全になれる、守れる、ということばかり教えようとするのです。
 
話が少し逸れましたが、ニコデモの言動は、興味深いところです。というのは、私たちも、ときに、疑いのために揺れて、迷うことがあり、分からないことがあり、信仰が儀礼みたいになることがあり、それでも、キリストを忘れられなくて、また考えるということになるからです。そして、教師でなくても、キリストに言われるからです。「これぐらいのことがわからないのか」と。
 
忘れていけないのは、主イエス・キリストは、ニコデモが、人が、そして、私たちが、分からないでいる、ということを、既にご存知の上で、憐れんでおられるということです。そのうえでのキリストによる救いだということです。
 
そうでなければ意味がないということです、分からないのに、分かったと言わないといけないなんて、我を張らないといけない信仰なんてあり得ません。
 
 
(2018年10月25日アップ)
 
讃える(たたえる)
叱咤(しった)、叱咤激励(しったげきれい)
嘲笑う(あざわらう)
罵る(ののしる)
逸れる(それる、(はぐれる))
 
 
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