カルトの時空
 
 
聖書という書籍は
キリスト教の聖典であり
聖書を読むことで
生涯にわたる記憶になったり
その中から
信仰に導かれてキリスト者になる人も出てくるわけです。
 
聖書は
あるとき読んだけれどピンと来ず
別の機会に読んで心に響くということもあります。
全然分からなかったのが後で分かることもあるでしょう。
ということは
そのとき分かったと思ったことも
さらに理解が更新されることもありうる
ということです。
 
つまり
神様は人間を導きますが
例えば聖書を通じてどう導くか
ということも
同じ聖書でありながら人によって
一定に決まっているわけではない
ということです。
 
教条主義のカルトは
自らの解釈を言葉によって固定し
不変としてしまうので
動的な導きを否定してしまって
最初から全てを分かっていることにするので
そのことが
新しい考え方を受け入れない大きな要因となります。
 
つまり
カルトの解釈の誤りというのは
解釈が異なっていることだけでなく
解釈の受け取り方が訂正不能になっている
ということでもあるしょう。
 
言い換えると
カルトにとっては
彼らの手の中に納まるように
とても単純に言葉で時空が固定されており
自らの知りえない時空の存在を否定して
自らの情けない時空の観念によって
全て分かっているかのように教えているのです。
 
神の全知全能、完全、永遠、そして
神の支配する時空に対して恐れを抱くことがないのでしょうか。
 
彼らは彼らの了見に
すっぽり収まっている教条の世界で
満身に慢心の笑みをたたえながら
神を讃美するのです。
 
こういう態度は言い換えると
神を恐れない態度と呼びます。
 
自分の視野や思考の及ばない可能性を認めることなく
自らの人間としての不完全を想定できず想像しようともしない
という心の貧困がそこにあり
聖句の心貧しさとは正反対のところから
教えて従わせようとしていることを覚えてください。
 
カルトは、見かけの優しさとは裏腹に、
外れたら、とんでもないことになるぞ、
という恐怖の絶対によって信者を縛っています。
その絶対は人が作ったもので神ではないのです。
 
神の偉大さは
いつも人間にとって想定外ですが
人間は
想定外のことがあるという想定をすることは可能です。
 
思い上がりは心貧しさのない背きであり
見掛け倒しは心を豊かに見せようとする欺瞞です。
 
私たちが多くを持ち得ない
そして実際に持っていないという自覚としての
心の貧しさがあります。
 
心の貧しさは
文句を言わずに従うことでもなく
心が空っぽという難解な境地でもありません。
 
神に対して
持っていないという貧しさを認めることなのです。
 
神と人の
支配と被支配
そして全能と不全の関係は
神の全き豊かさと人の不全という貧しさの関係です。
 
この関係において豊かな人間はいません。
この関係において人間が神を仰ぐのが信仰です。
 
この関係を無視して人間が神?を仰ぐのがカルトや偽善者です。
 
キリストは人間に対して、心が豊かであること、つまりここでは、人間が持ち物によって富むことを戒め、心貧しいことを幸いとしました。
 
人の心の貧しさの対極にあって美しいのは
人の心の豊かさではなく
 
神なのです。
 
キリストそして神の心が豊かなのは言うまでもありません。人間が神と同じものを持った気になってはいけないということです。この意味において、人間が、豊かになろうとすることは、神になろうとすることに等しいからです。 
 
 
(2018年10月26日アップ、同日一部修正)
 
欺瞞(ぎまん)
 
 
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