カルトの慢心
神は
神を恐れる者に
信仰の義を与えます。
しかるにカルトは
自分の思い込みの解釈上の神を讃えます
まるで自らの不義を隠すかのように
自らの慢心を神に向けて
自分の神を誉めまくるのです。
人はいずれ
自らの慢心を砕かれます。
何よりも
必ず地上の命は終わります。
ゆえに私たち信仰者は
神を恐れるゆえにキリストの愛に縋ります。
しかるにカルトは
いつも、そして、臨終においても
自らの慢心を神に見せて
その誤りの無さ?を誇るつもりなのでしょうか。
そしていっそう神を誉めまくれば
神は、よくやったと、
誉め返してくれるとでも思っているのでしょうか。
教条の言葉による解釈で
神の言葉を固定してしまったカルトは
神を恐れるふりをして
神を讃えるふりをして
神から
神の義と同じ義を与えられると信じているようです。
訂正不能のカルトの自己破壊は目を蔽わんばかりで
まるで子供が駄々を捏ねるような
相手の言うことを単純に否定したり
自分が言われそうなことを相手に向けたり
という言い張りに終始しているのに、
大方、教理とか論理とか認定とか忠告とかの
言葉だけをちりばめて格好をつけようとします。
そして常識が壊れて
普通しないような罵りのための罵りに
個人情報を大切にする節操もなく攻撃してきます。
カルトは反対者を排除するのに手段を選びません。
カルト信仰は反対されると
石像になって固まるか
野獣に豹変します。
すり込みと鵜呑みだけで出来た信仰は
自らを否定されたときの内省の理路を持たないからです。
やさしい言葉に騙されないでください。
批判者に向ける無制限の罵りと、
離れると大変なことになるぞ
という脅迫がカルトの本質です。
それは
賛同者への世辞、そして、
批判者への罵倒に表れています。
このような
無秩序を必然とするカルトですから
信仰者がカルトを批判しないならば
カルトは好きなように神の名を悪用して広めるでしょう。
神のいない神の言葉?を広めるでしょう。
生きるのに役に立たない慢心のカルトの言葉は
そのまま放置して好きにさせてしまうと、
いずれ何らかの切っ掛けで衝突事故を起こし
取り返しのつかないカルト騒動を起こすのです。
成長可能な人間のあり方を放棄して
自らの中に神?も人も固定してしまったカルトは
毎日毎日慢心だけを神に捧げることになります。
神は
人としての分際を弁え
神を恐れる者にのみ
信仰の義を与えます。
そのことは
聖書を読んで
人間として考えれば明らかなのです。
(2018年10月27日)
縋る(すがる)
誉める(ほめる、褒める)
蔽う(おおう)
駄々を捏ねる(だだをこねる)
弁える(わきまえる)
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