神と書いた紙
 
   回復された神の国
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28768737.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
言うだけなら、書くだけなら、聖書由来の美辞麗句は、たくさんあります。それを聖書語と呼んでいます。また、仲良くしたいと思わせるためだけの状況にそぐわない丁寧な書き方もあります。それを丁寧語と呼んでいます。その2つしかないシャロームの、実感も実体もない記事が、今日も、人が油断して受け容れるのを待っています。そういう人だから、シャロームに対しては、忍耐強く、どこまでも批判を当ててゆく必要があるのです。
 
(まず、引用記事から)
 
シャロームが、同意して引用した記事として、彼の発言と同等に扱ってゆきます。
 
>今日、神の国が見える人が必要です。
 
神の国が見える人がいるのでしょうか。
こういうことを軽軽に言ってしまう人は注意が必要です。
表す言葉を持たないためにスーパーな言葉を豪語している可能性があります。
 

しかし、それは特別に聖書に精通した人のことでしょうか。
それは特別に霊的な人のことでしょうか。
いいえ、イエスの言葉によれば、そうではありません。
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」とイエスはニコデモに言われましたね。

 
ニコデモに言った
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」
この聖句で、分かるでしょうか。
 
 私の記事「ヨハネ書:ニコデモ」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19930577.html
 
何かを付け足せば分かるでしょうか。見てみましょう。
 

今日、神の国と神の義をまず第一に求める人たちが必要です。
それは神の国についての詳しい知識のある人のことでしょうか。
神の国、神の国といつも言っている人のことでしょうか。

 
キリスト者は、神の国と神の義を求めているのではないでしょうか。
 
引用の3つの文は、それほど変わりはないのです。今さら言っても、それで肯定も否定も出来るものではない、ということです。
 
ただ、神の国、神の義など、神という言葉を、言うだけは、うんざりするほど言っているシャロームのような偽善者がいるということです。彼の知識は、信仰において成り立っていないという証拠だけが積み重なっています。
 

自分の生活の場と、信仰共同体、エクレシアである教会を通して、神の主権と支配を見ていく人、求めていく人、それが神の国を求める人たちだと、わたしは思います。

 
この文も、しっかり信仰しましょうと言うのと、たいして変わりはないのです。
 
教会を通して、ということを強調したいのなら、教会において教えられることが真実という保証は殆ど説得力がありません。結局、神の国を、神の主権と支配と言い換えただけで、分かる問題ではないということだけが明らかになっていると思います。
 
シャロームのような、言葉の深い理解をせず、表面的に受け取っている者だけが、ちょうどいいと、快楽原則だけで、頷いて、引用しているだけでしょう。
 
不完全の自覚、罪性の自覚、と言ったことを通り越して、分かるんだ説教をもって、信仰の神髄や秘訣を語ろうとすると、こういう、似たような言葉の堂々巡りに至るのでしょう。
 

その人たちは自分の思うようにしようとする「自分の国」を求めていません。
その人たちは自分たちの思うようにしようとする「みんなの国」を求めていません。
そしてまた、その人たちはもちろん、「この世の国」を求めていません。

 
誰でも肯定することですが、シャロームのような、自分の思うように神が導いているから、罪を悔い改めなくても救われる、と言っている人がいることを覚えてください。シャロームにとって、神の国=自分の思い通りの国=みんなが自分に従う国=この世で自分に都合の良い国、ですから、信仰者の立場からは、そういう国ではないことを突き付けてゆく以外にはありません。
 
神の国が見える人はいません。「見える」というところには罪が表れます。また、引用しないといけないのでしょうか。
 
  (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
  (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 

イエス・キリストが王であり、オーナーであるとすれば、
その方の主権を認め、その方の支配される領域が広がることを求めている人です。

 
同じです。神の国のオーナー、主権、支配領域、と書いて、語ったつもりになるシャロームの詭弁の、ずっと続いている繰り返しです。このような、理解のために一切役に立たない屑のような言葉の使い方で、信徒に、世辞で、信仰が厚い先生、と言わせてきたのがシャロームの生業です。
 

その領域の始まりは、あなたやわたしの心からだと、わたしは思います。
自分の周りに起こったことで、ああ、これは神の国だ、と分かったことはありませんか。

 
シャロームは、今まで述べてきたことから、自分の心も体も、神の領域にあるつもりなのでしょう。恐ろしい信仰の裏切り方ですが、ああ、これは神の国だ、と分かるのだそうです。
 
人間離れ、現実離れ、神がかり、訂正不能、何を言われても不感不応、という、自分信仰のすべての要素を備えてしまうと、愚かの罪から、悔いることのない悪への偽善へと向かう人間破壊は、自らのみならず関わる人をも、神の名によって、滅ぼしてゆくでしょう。
 

神の国と神の義をまず第一に求める人、その人たちのためには、生活に必要な他のすべては、添えて与えられると約束されています。
すごい約束ですね。

 
すごい約束と言って、生活に必要なすべてが添えて与えられることについて、何も説明していないのが、実に偽善者らしくシャロームらしい。文字通りと受け取って、都合の悪いことを、無視したり、忘れたり、隠蔽してきたシャロームの偽善が重ねられて、今回も表れています。
 
シャロームは、神に任せるのが一番と言いながら、自分に不都合な証拠を、自分で強制力をもって隠蔽してきたのです。凄まじい背教を全生涯に通そうとする変性と破裂の錆びた鉄パイプです。書けば書くほど、裂け目から凄まじい無理解と無感動と破綻の無知と無恥が漏れ出てきています。言葉だけが大袈裟になる必然でもあります。
 
シャロームは、真っ向から、神の国と神の義に、歯を出して笑いながら、歯向かっています。
 
シャロームは、すごい約束を、すべて、自分の都合で信じて、人を人とも思わず、人の意見を聞かず、受け取らず、それを隠しながら、言葉としては聖書語と丁寧語によって、誰の糧にもならない空疎な自分の言い分だけを言って、丁寧語で騙されて賛同してくれる人を待っているのです。
 
道理も恥も完全に無視して生きていられるとは、シャロームは、本当に、すごい?!人です。
 
 
>《shalomのコメント》
 
自分だけを高みにおいて、他者について、上から見下ろす立場で語るところの、
全か無かに短絡したシャロムのボロクソ節が、またしても全開になっています。
 

国には国土と国民が必要です。
日本には日本の領土、領海、領空と国民があります。
神の国は神が創造され、統べ治めておられる神と天地万物がその領域です。
その領域のすべてを神はご自分のかたちに創造された人にゆだねられました。
しかし、神の国をゆだねられた人は神の言葉と神の対する信仰を退けてしまい、
サタンに属する国、自分の国としてしまったのです。

 
地上の人間世界をサタンに属する国という見なしをしています。
自分は何様のつもりなのでしょう。
 
人間世界にはサタンの支配しかないでしょうか。キリスト者が誕生するのは、シャロームにとって、人知を超えた超常奇跡でしか起こりえないでしょうか。
 
一人一人の信仰はその誕生から、聖書を通して、神と人の、キリストと人間の、双方向です。
 
その双方向を否定して、神と人の、人と人の、共感を否定して、人間性というものを全く理解できないで、人間をやめた境地に立っているシャロームは、人間性をサターンのように見なして、かえって、超常の魔性?が運ぶものを信仰しているのです。彼は、すべての人間をゴミでも扱うかのように軽蔑し、使徒と呼ばれる弟子たちをも貶めています。彼の信仰の、どこをとってもキリスト信仰ではないことが表れています。
 

神はサタンとその奴隷となった人から神の国を取り戻すために、
弱小な民をご自分の国とするために、アブラハムをその始祖として選ばれました。
そして、アブラハムの子孫を神の国、祭司の国として建てられ、
サタンの国、人の国を神の国とするために、アブラハムを選び、
神の国、祭司の国であるイスラエルの民による救いの計画をされたのです。

 
このように、シャロームは、人の集まりを固まりを動かすように語り、聖書の登場人物をその名前と役割でしか語れません。信仰から人間性を除くと、こうなってしまいます。教理を、救いの仕組みの理屈だけで語る、垢だらけになる擦り方です。
 

その約束を成就するために、神と人との間に祭司の国を立て、
神と人との和解のために、罪のあがないによる救いの大祭司を遣わされたのです。
その大祭司がイエス・キリストなのです。

 
救い主という言葉より、大祭司という言葉を好むのは、ものごとを儀式的にしか語れない教条主義へ向かう特徴の一つですが、シャロームの場合は、中身のない自分の、中身のない無駄話を、立派に見せる詐欺師の語り口なのでしょう。どこまでも、自分を大きく見せようとするところは、救いとは何の関係もない大口と唾液と舌を自ら腐らせる悪臭の墓場になってゆきます。
 

イエス・キリストは罪なき神の御子ですが、罪ある人の罪を贖うために、
私たち人の罪をご自分の罪とし、罪を贖い、罪の赦しを与えるために、
神の裁きによって血を流すことなしには出来ない罪のあがないのために、
イエス・キリストは十字架につけられ、私たちの罪に対する裁き、呪いを受けてくださったのです。

 
共感というものを全て排除して、教理を語り騙る偽善者の企みは、贖罪を腐食剤に変えてしまいます。まさに、シャロームの説教には、温もりも潤いもなく、血も涙もなく、人間を処理する工場の壊れて放置されたラインのような冷たさしか感じられません。いかに丁寧でも、これは、欺きのための聖書語の羅列が、教理を不細工に追いかけているだけなのです。
 

そして、人は如何なる自らの義のわざによってではなく、
ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神による義認の恵みを与えられ、
すべての人にサタン国、人の国から神の国への救いの道が開かれたのです。
神はイエス・キリストによって、神の国として創造された天地万物を再び、神の国とし、
すべての人を信仰によって神の国の民となる救いの道を備えられたのです。

 
信仰義認を語っているように見せかけていますが、シャロームは、十字架の贖いによって、悔い改めることなく無罪になっているという、キリスト信仰とは正反対の無罪妄想信仰者です。自分以外に対しては、世辞であろうが言葉の断片であろうが、利用するだけの意味しか感じていないと思います。
 
シャロームにおいては、義とされた信仰者の謙遜も見せかけだけなのです。この6~7年の間、シャロームは、丁寧語と聖書語を並べるだけで、嘘の方便と、最近も明らかになった真っ赤な嘘によって、露になった裏の獣性が明らかになってくるだけでした。信頼に値する何ものも示したことが一度もありません。それで平気でいられるような、人間に必要な何かが欠けたところの、何らかの病質者なのです。批判以外で関わってはいけない人です。
 
シャロームが、いかに信仰を守っているつもりでも、表れてきたのは、彼の利己だけです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:31-34、新約聖書)
 
神の国と神の義とを求めることが書いてあります。必要なものが添えて与えられるというのは、神に全てを任せる人にとって、それで満ち足りて、余計な欲望がないということでしょう。それは、つきつめてゆくと、殉教の精神に関係してくるのです。
 
神から与えられるもので、それが生でも死でも、受けることを幸いと思えるか、ということが問われることになります。そこでは、キリストに愛された者が、どこまでキリストを愛せるかということが問われます。
 
全ての信仰者が、殉教するほどの信仰の勇気を持ちうるでしょうか。そのような信仰者になれない人には、罪を犯し、悔い改めの祈りをするという信仰が必要になるのです。
 
その立場に、キリストの十字架の時は、ペテロや弟子たちがいます。
 
キリストは、誰も巻き添えにせず、誰も責めずに、ただ独り、十字架につきました。キリストは、弟子たちが裏切ることを見抜いていたゆえに、赦されて使徒となる悔い改めの道を、ご自身の十字架の後に用意しておられました。
 
思い煩うな、というキリストの教えと、添えて与えられる、というキリストの約束には、罪をご自身の身に背負うキリストの愛が表れているのです。そうして、弟子たちは使徒となって、教理に従ったのではなく、キリストの愛ゆえに、そして、キリストを愛したがゆえに、殉教に向かう道を歩むことになります。その信仰は、とても情熱的です。
 
その命を賭したキリストの話に共感できないシャロームは、ああ、これは神の国だ、と分かることがある、という超常理解?の自慢話に貶め、すごい約束ですね、という素っ気ない括りで済ませてしまうのです。
 
偽善者とカルトの特徴である境地自慢に陥らないように気をつけてください。偽善者は、平気で裏切り、ペテロとは違って泣くこともなく、笑いながら平気で裏切りを隠す生業だからです。
 
広き門には、わざとらしく神を誉めまくり、自分の卑怯を隠しながら、教える立場で目立とうとする輩がいます。好意的に関わることのないように注意してください。
 
自分は何を受け取ったか、ということを考える習慣が必要だと思います。
 
 
神の前で、強がることなく、飾ることなく、
弱虫でも、正直に罪を告白し、赦しを乞うのが信仰です。
 
自分が、キリストの愛に、どれだけ答えることが出来るか、
それは、神以外、誰も知りません。
しかし、弟子たちに用意されたように、
答えられないからといって、おしまいにならないのが
キリストの約束であり、信仰です。
 
 
(2018年10月28日アップ、同日一部修正)
 
錆(さび)錆びる(さびる)
屑(くず)
糧(かて)
騙す(だます)騙る(かたる)
生業(なりわい、せいぎょう)
輩(やから)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
括り(くくり)
垢(あか)
擦る(こする)
露(あらわ)
 
 
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