怨念と信仰
 
   御霊信仰と怨霊神を守護神に変える心理
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28771190.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
批判する必要がないほどに優れた引用記事なのです。なぜ、シャロームは自分のブログに書くのでしょう。シャロームが扱うと、気色の悪い騙し技になって、胡散臭い文章になってしまいます。
 
引用文献によって自分が斬られていることに気づかないシャロームは、読解した慢心をもって、また、書いてきます。とはいえ、大方、引用だけなのですが・・。
 
(引用文献より)
 
 「
 
4.怨霊神を守護神に変える心理
怨霊の猛威を恐れていながら、神に祀り上げてしまうと安心してしまうほど
古代の権力者は単純だったのだろうか。また御霊会を営むと御霊は鎮魂されて
荒ぶる怪異を表すことがなくなると信じるほど、古代の庶民派楽天的だったのだろうか。
古代から近代に至るまで、かつて祟りが強烈だった怨霊ほど、
鎮魂されると霊験あらたかだと信じられていたが、それは彼らが手強い滴ほど、
味方にすれば頼もしいと考えられていたからだと片付けられてきた。
確かにそれも一面の真理には違いないが、怨霊神が守護神に変貌する真の理由だとは思えない。
 
さきに、敗者の怨霊に悩まされ続けた勝者の心の深層に、
自分が滅ぼした敗者に対する良心の呵責や謝罪の気持ちと、
なおも自分に祟り続ける怨霊に対する怨みや恐れの感情との間に
アンビバレンスな葛藤が生まれ、その苦しさから逃れるために
自分の怨みや恐れを怨霊に投射して自分を被害者の立場に置こうとする
心的なメカニズムが働くようになったと述べた。
 
  」
 
日本の宗教を考えるうえで、とても興味深い文章です。
そして、その中の、
 

なおも自分に祟り続ける怨霊に対する怨みや恐れの感情との間に
アンビバレンスな葛藤が生まれ、その苦しさから逃れるために
自分の怨みや恐れを怨霊に投射して自分を被害者の立場に置こうとする
心的なメカニズムが働くようになったと述べた。

 
これこそ、シャロームの怨念でしょう。それによって、彼は、何を批判されようとも、不感不応の、ひび割れて笑う仮面顔貌を表すように、自分は被害者だ、被害者だと、書き続けているのでしょう。反省しないで、ひたすら無視し続ける者は、このような手段と取るということです。
 
さらに、シャロームが、バッサリ斬られているところが
 

こうして、自分を被害者の立場に置き、ひたすらに怨霊神に許しを乞い続けることは、
心理的には怨霊神に幼児のように甘えているに等しい。

 
シャロームが、この記事を引用するのは、まさに、これを、批判者に向けるためでしょう。しかしながら、出来が良いとは言えなくても、私の批判記事は、幼児に書ける文章ではないと思っています。
 
シャロームは、この記事を理解していないから、平気で引用していますが、同時に、今までの私の批判記事をも全く読解していないことが表れています。
 
私は、シャロームに許しなど乞うてはいません。シャロームが臭い文章など書かなければ、私は、批判記事は書きませんし、そもそも、私は、シャロームに、何の興味もありません。
 
シャロームの誤謬と偽善だらけの文章が、キリスト者と求道者に、キリスト信仰について、大きな誤解を与え、福音伝道を妨げるものだと判断したから、批判記事は生まれるのです。
 
シャロームの、文章理解と作成は、小学校レベルにも達していないと思いますし、その極端な偏りについて、その原因が、彼が訂正不能にして学習しなくなった信仰の姿勢にあると思われるので、批判記事としては、特異な、そして、固有の意味を持っているのです。
 

日本人は支配層も庶民も、怨霊神に甘える心理を抱き、
それを介して怨霊神を守護神に変えていたのだと思われる。
なおこの甘えが、宗教的な意味での愛とは全く異質のものであるのは言うまでもない。

 
シャロームの、怨霊神信仰も、語るところ、何の共感も伝えておらず、情緒がなく、古い皮袋の破裂そのままの、愛とは全く異質のものです。
 
 
>《shalomのコメント》
 

「うらみ」の心理 (山野 保著)の第2部「うらみ」と日本文化より
第1章「御霊信仰と日本人の心」を引用してきました。
お読みくださりありがとうございます。
今日も日本人の心を支配している日本文化、宗教の底流が明らかにされていると感じました。
著者も言葉を再度引用して終わります。

 
シャロームは、自分の意見は書かず、そして、月並みな挨拶とお礼のメッセージを書いています。なぜ、シャロームは、自分の言い分など、殆ど書いてないのに、「《shalomのコメント》」などと書いて、ろくに読み解いてもいないのに、転載だけで十分なのに、自分の名前を出したがるのでしょう。コメント欄を、閉鎖したままで。
 

民俗学者谷川健一は「敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、
わが国の歴史ではれんめんとつづいている。
この奇妙な倒錯を認めないものは、
日本の歴史の底流を理解することができない」と述べているが、
この奇妙な倒錯こそが御霊信仰にほかならない。

 
この歴史と宗教史を考察した文章に、シャロームは、自説の、社会と歴史に対する勘違いの自己中心のボロクソ節を加えて記事にしたことについて、何の反省の弁もないのです。
 

世界中どこでも古代の原始宗教では、
神と人間との間が越え難い深淵によって分割されておらず、人間が存在しえたのである。

 
シャロームは、現代の人間にも通じる原罪の実存的な問題を、アダムとエバに罪を押し付けて語り、人間にも、人間の原罪にも、他人事として、全くの無頓着ぶりを表しています。
 

しかしながら日本には、人を神に祀る風習が延々と続き現代に影響を及ばしているという極めて特異な文化がある。
現在でも、われわれは死者をすべて「ホトケサマ」と呼んでいるし、
戦死した将兵はすべて「カミサマ」として祀られている。
その感覚が現在でも怨霊の祟りを信じさせ、霊感商法が生まれたり、
怪しげな祈祷が繁盛する背景となっている。

 
シャロームが、よく言っていたのは、どんでん返しの奇跡で、自分は救われるということです。何の覚悟も反省もなく、そう言ってしまうのが、シャロームの、自己中心のボロクソ節と、不感不応に通じています。
 
いずれ奇跡によって救われるのだから、思考も感性も人間性も必要ないと活動を停止させたために、その後の人格破壊によって、書けば拙劣で、偽善にしかならないという経過となっているのでしょう。そういうことに無関心でいられるというのも、彼が自分信仰の沼にいるからだと思います。これは、霊感宗教の魔法の成就とでも言うしかないことです。
 
ここで、日本の精神文化を、沼、というのは、遠藤周作の本で読んだような気がします。
 
シャロームは、沼のように底知れない怨念を他者に向けているから、他者を完全に悪者に出来てしまうのでしょう。教会の牧師というイメージとは全く一致しない精神をシャロームは持っています。訂正不能の老人の頑迷と質の悪い子供の身勝手な心性とを混ぜたような精神だろうかと思ったりしています。昔々の幼稚な結論のまま固定してしまった人です。
 

古代日本人は怨霊は悪であり滅びるべきであるという論理で戦うよりも、
安易に怨霊と和解し、その証しとして神に祀り上げて共存したのである。
適応性に富むというべきか、いい加減というべきかはしばらくおき、
少なくともそれが日本人の特技であることは間違いない。
このような習俗を千年余りも持ち続けた文明国が日本以外にも存在するかどうか
私は知らないが、稀有であることだけは確かであろう。

 
シャロームは、怨霊、ここでは、悪魔か悪霊でしょうか、彼は、和解というより、いつも一緒にいて、アドバイスをもらっているかのように、平気で批判コメントを削除しましたし、また最近、平気で嘘を吐き、しかも謝ったあとで、負けるが勝ちと笑いを入れたりするのです。
 
とても、いい加減に、そのときそのときを処世して、それで、なお、知識人ででもあるかのように、自尊心だけは持っていて、過去には、神が自尊心を支えているなどと言ってはばからなかったのです。それらの失言というより吐き気を催す汚言のようなものについてさえ、自尊が傲慢になっているのか、シャロームは、訂正したことがありません。
 
 
そのあと、シャロームは、靖国批判のネットの記事を載せています。
 
> 全文は
https://netallica.yahoo.co.jp/news/20181028-13453820-litera
 
基本的に、私は引用サイトに、ほぼ賛成なのですが、神社について詳しいことは知らないので、多くは語れません。シャロームは、自分が言論をリードしているかのように、長々と引用しています。そして、引用した責任は果たさないのです。
 
靖国神社が怨霊と和解しているとでも言いたいのでしょうか。英霊と呼ばれる人々を怨霊とでも思っているのでしょうか。引用したなら、その前の記事との関連を述べるべきですが、シャロームは、自分の意見を、一切、述べていません。
 
ずいぶん前に、ある政治思想のサイトに、例えば、特攻隊を英霊と呼ぶことに関しては、愛国心は認めても、当時の軍国主義教育の犠牲ということがあり、さらに、もともとから、特攻隊の、敵の殺傷破壊という目的行為を忘れるべきではないと書いたことがあります。
 
そういう意味はあっても、シャロームが、引用記事の流れで、怨霊と和解と言うつもりなら、成り立たないと思います。ひょっとして、これは、シャロームの、新手の、ボロクソ関係づけ引用なのか、と勘繰りたくもなります。
 
自分が詳しい知識がなく、関連を説明できない場合、言論者は、どうするべきか。普通は、引用せずに、リンクにとどめるか、混ぜこぜにせず、転載記事として載せるべきでしょう。
 
シャロームは、政治や歴史について書けば、必ずと言ってよいほど、一方的に、ボロクソ節で悪者にするだけなのです。日本に特別な恨みがあるのでは?と思うほどです。
 
そのような幼稚な思想しか持ち合わせておらず、自分の意見が悪口だけで全然まとまっていない者が、宗教であれ、社会であれ、歴史であれ、何であれ、記事の中に引用して利用することが、引用元に対する迷惑になり、何より、引用自体が的外れになる、という常識的な配慮が、全く働かないのが、曲解と妄想信仰のために他者の迷惑を考えない怨念法師、いかなる文書の整合性とも無縁でいられるシャロームなのです。
 
 
(2018年10月30日アップ)
 
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