教条化
 
 
言葉は
言葉が指したものを正確に表してはいない。
実体に比して表象は常に不完全である。
ゆえに心は揺れ動く。
 
その最たるものが「神」である。
 
つまり人の言葉と実体は
一対一の対応はしていないのに
 
さらに人によって対応そのものも違うのに
 
言葉を人が
一つの意味そして一つの実体と信じ込んで
さらに行為と一対一対応としてしまうのが
教条化です。
 
教条信仰においては
人の言葉より遥かに深淵なる神の言葉を
不完全な人の言葉で教条化してしまうのです。
 
教条化が進むと
言葉を自由に使うことが出来なくなり
教条以外のことを考えられなくなってゆきます。
 
それが信仰だと思い込むのが教条主義の教条信仰です。
 
言葉の意味を
一つに決めないと安心できなくなり
一つに決めて絶対化して安心して
一つに決められない人間の性質と罪を認めなくなり
完全になれる、完全になれると
神のごとく信仰の行為を逐一決めつけて
そこにしがみついて
頭と項が硬くなり
大切な柔和を失ってゆき
批判に対して易怒性と易興奮性で反応しやすくなり
反論や弁明ではなく罵詈雑言が増えてきます。
 
教条化された思考には遊びも余裕もありません。
 
寸分たがわないところを言葉に求めるので
全肯定と全否定の
全か無かで裁く判断がメインになります。
 
言葉にこだわる教条主義は
視野と受け容れの器が狭くなります。
 
何より保留が出来なくなります。
 
人間の世界は
保留するしかないことで溢れています。
 
人が何かを誰かを理解するということは
僅かのヒントを大切にして
さらなる理解をするように努めることをもって
実際には保留することです。
 
それが罪深い人間と
絶対の神との違いです。
その違いを知ることが信仰であって
神を知ることが信仰なのではありません。
 
なのに教条化された頭は
不完全が完全の気取りと硬直を持ってしまうのです。
 
これは
キリストがパリサイ人を偽善者として批判した理由であり
 
教条主義がキリスト信仰となり得ない根拠であります。
 
教条と信仰を分けてください。
思い付きや思い込みと信仰を分けてください。
 
絶対の神の意志と相対の人の信仰を分けてください。
 
そうするところにしか隘路を開く鍵はないと思います。
 
教条主義による教条化による教条信仰は
いつも安易な方向に流れたところで結論して
完成を歌いながら
人間の感性と思考と洞察力を損なってゆきます。
 
真実の信仰は
人間の感性と思考と洞察力を促します。
砕かれた魂を生かす道によって
心が動くための活性を与えられるからです。
 
 
(2018年11月01日アップ)
 
逐一(ちくいち)
項(うなじ)
隘路(あいろ) ≒ 狭い道、通行の難所。
 
 
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