神か人か
 
 
キリストは神か人か
ということがキリスト教を考えるうえで話題となり
論争にさえなるでしょう。
 
私は、基本、決めつけない立場で
事実かどうかは保留しています。
 
しかしキリストが
イエスという名の人だとしても、
福音書を見れば分かるように
物や肉体の奇跡を抜きにしても
イエスは
人を見抜く優れた洞察力と
人の悲しみに寄り添う共感力と
命を賭するほどの愛を持っておられたのです。
 
この御方を、人でした
ということで済ませられるでしょうか。
私には、とても出来ません。
 
つまり
神か人かに関わらず
私の心を揺さぶり
大きく変えたイエスという御方は
私の救い主なのです。
すなわち
ただの人では決して済まない御方なのです。
 
私にとって
人間として可能で必要な神認識は
その告白だけで十分なのです。
 
その告白の時
イエスは
主イエスでありキリストなのです。
 
何故それ以上を
神聖について知ったかぶろうとするのでしょう。
 
信仰者の宝は
神の前に
比べ物にならない無知という自覚であるのに。
 
 
※ 
 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
好事家の議論に過ぎません。
何故なら、今、あるいは、
あるとき、自分の都合の良いように、
物や肉体に、奇跡は、
少なくとも滅多に起こらないと言えるからです。
 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
終末まで保留してよいと思います。
 
人生の成り行きにおいて
奇跡体験を持っている人は
神の導きがあったかもしれない。
 
しかし
その時の奇跡が
都合よく繰り返されるとは限りません。
 
神を信じることと
神が自分の期待通りに奇跡を起こすと信じることとは
まるっきり逆方向であります。
後者は神の行為を決めつけて思い込む傲慢です。
期待通りという条件は人の作りもの
すなわち偶像に他なりません。
 
信仰は神への無条件の信頼です。
何も持たずに神の懐に飛び込むことです。
キリスト者をそうさせるのは
キリストからの愛とキリストへの愛であり
それ以外にはありません。
 
神は便利屋ではありません。
個人を守る氏神でもありません。
神は神の基準によって動かれます。
その基準は神の秘密です。
 
自分は奇跡に守られているという信仰?が
いかに身勝手で自己中心的な人格を作ってしまうかを
私は、嫌というほど
ずっと見続ける羽目になっています。(嘆)
 
 
(2018年11月14日アップ)
 
好事家(こうずか)≒物好き
 ・・知らなかった。「こうじか」と読んでいました(汗)
羽目(はめ、破目)
 
 
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