正しさ
 
 
信仰者は信仰について
正しいと思ったことを語るが
 
神の義、神の正しさ
という立場で語るのではない。
 
とても小さい人間が受け取り
人間を、誰よりも自分を、
生かす力となることだけを
信仰と呼び
正しいと判断しているに過ぎない。
 
何かを実行する必要のために
時々に必要だから
これしかないだろうと
判断しているのである。
 
その経過を報告し、
悔いを告白して
神に祈り、赦しを乞い、
結果とその後の導きを委ねるために。
 
 
信仰の体裁だけしか受け取っていない場合
 
情欲の聖句の
「女」を「他人の妻」に置き換えて
これなら守れるでしょう、
出来ましたと、いい気持になり、
 
教えの神髄を緩めてしまう。
 
「神をおそれる」の「おそれる」を
「恐れる」から「畏れる」に変えて
神は恐ろしい御方ではありません。
いつも愛に溢れた優しいお父様ですよ。
というような
自分の気安い信仰?のイメージを当てはめて
 
教えの神髄を緩めてしまう。
 
まるで、悪しき政治のプロパガンダみたいだ。
 
まるで、
ですよ、ね、ですね、ですよね、じゃないですか、
当たり前じゃないですか、と言っているみたいだ。
 
緩んだ優しさを愛と勘違いして
まるで客寄せみたいに
こういうことを考える者たちの目指すところは、
自己満悦と自己顕示だけだろう。
 
頷くのは、
カルト的な教条主義者か、
人に従っていないと生きてゆけない人か、
気安く罪を赦されたい偽善者だろう。
 
信仰を守りやすい道徳に貶めて
神をどこかの優しい偉い人レベルに貶めて
訂正する意志のない者は悲惨である。
 
悲惨を自覚しない者はさらに悲惨である。
さらに他者を巻き添えにして悲惨となるだろう。
 
 
信仰は
しばしば俗の社会に対して不適応であった。
 
預言者たちと使徒たちが証人である。
何よりもキリストが、その道を歩まれた。
 
そのときは暴力に対して
実に無意味にさえ思われた非暴力によって。
 
 
一部の偽善者たちによって
故郷が引き裂かれ
侵す者たちの切り取り放題となり
 
私たちが故郷を失っても
安住の地を御国に求める人々は
それゆえに
なおも信仰によって偽善と闘うだろう
 
偽善者には企みがあり
陰謀を巡らし
反対者をあざ笑うだろう。
 
それが偽善の証しとも知らずに。
 
旧き時代と
キリストの時代と
私たちの時代に
なぜ、そのような邪悪な偽善者が生まれて
しばらくの間、栄えるのか、
という問いに返される答えは、
御国が来るまでは
私たちが御国に至るまでは
ただ
神の秘密
神秘の計画だという答えだけである。
 
信仰者は
保険のない世界で
奇跡の起こらないような世界でも
使命を果たすことを求められる。
 
イエス・キリストからの愛が信仰を支え
イエス・キリストへの愛が信仰を進める。
 
きびしいのでも生ぬるいのでもなく、
生きる力となる信仰、
それだけが地上で分かる神の国である。
 
 
※ 
 
「その名は不思議」、実は、その名は不義。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita
同サイトの、以前のタイトル
「讃美の家」、実は、酸味の家。
「聖書の聴き語り」、実は、聖書の引き倒し。
邪悪なサイトの嘘に
キリスト者が巻き込まれないように、祈っています。
 
 
(2018年11月21日アップ、同日一部修正)
 
侵す(おかす)
 
 
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