反逆の偽善
人は神の作品である証拠
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28798921.html
by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
ヨブに出来て、キリスト者ならできるけれど、シャロームには出来ないことがあります。
(ヨブ記、口語訳)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
(ヨブ42:6、旧約聖書)
それで、親族まで登場させて、何事も無かったかのように見せかけ、ごまかそうとします。
生きている人間には状況とか事情とかいうものがあります。今の生き方の有り様、最近、どのようなことを考え、かつ、行ったか、そして、どう感じたか、その結果はどうだったか、などということです。その状況に応じて、人間は、悲しくもなり、嬉しくもなるのです。その気持ちは、日々の感じ方や考え方にも影響して、そのことで、人間は、落ち込んだり、またそれを克服して成長もするわけです。
ところが、その状況というものを全く無視してしまう人は、どんな失敗も過ちも、悔いることなく、反省することなく、ゆえに、成長することもありません。これからも、前と同じことを言い、ずっと、同じ過ちを繰り返すのです。そういう生き方は停滞ではありません。正常では成長する分を、無にしてゆくので、衰えだけが訪れます。ゆえに、人間の精神活動としての情緒と理性的な部分が現実に対応できず、逆に壊れてゆきます。
シャロームは、彼が、今までの記事とコメントに書いて、私が批判記事に書いたように、我を張っては、通らない自説を振り回し、醜い偽善を表して、発言のたびに、矛盾した理路と、崩壊した心性をあらわにしてきました。そして、コメントを削除するという行為は、反対者を亡きものにするという凶行の縮図と言っていいでしょう。
しかし、彼は、それを踏まえることなく、今まで順調であり、これからも順調である人のように振る舞っています。それは、すなわち、信仰?として組み込まれた、絶対的多幸気分によるもので、不感、不応、無反省、無修正であり、成長どころか、ひたすら、退化し破壊されてゆく人間崩壊をあらわにしてゆくのでしょう。
修正不能に固着した捏造の境地が、どういう白々しさを生むかが明らかになっています。これは、今までもあったことで、これからも、あることです。そして、それは、文面では、穏やかに見えますが、恐ろしい悲劇と加害を、自他に及ぼしてきたし、及ぼしてゆく絶対自己中心に生きる魔性であり、神と等しい境地を人が作ろうとすると、どうなってゆくかという見本なのです。
穏やかに笑っているような文章ですが、そのような文章を書いている場合でないときに書けば、都合の悪いことを一切なかったことにしてしまう企図であり、とても見苦しい精神の荒廃を、何も手当てせずに、多幸気分によって代償し防衛しようとする忘却の症候群となります。
そういう忘却こそが、ずっと以前から、都合の悪いことを、例えば精神病質つまりサイコパスにつながる虐待の主体と対象という決めつけを平気で相手に当てつけたにもかかわらず、そんなことはしていませんと言って、具体的な指摘を返されて、黙ってしまう結果になり、修正機能が無いから固着し、殆ど体質となってしまっています。
また、のどかな情景を穏やかな文章で綴ってよい理由が既に壊れているにもかかわらず、平気でいられる思い込みの世界では、根拠もなく、相手を、カルト呼ばわりしたり、自分に依存していて構ってあげないから意地悪をするのだという自己愛的な決めつけをしたりとか、まるで根拠のないことを、平気で言って、相手を侮辱する、という病巣を、底知れない心の闇に隠し続けることになります。
これこそ、まさに、悪と罪よりも、いっそう悪性の、善に見せかけた偽物の日常、すなわち、偽善なのです。日常が偽善になってゆく者の、とても、おめでたい排泄物の温度と湿度と臭気を噴霧している文章です。
一切、反省しない、という凝り固まり方を、超常の信仰?のつもりで続けてしまうと、人間は、モンスターになってゆく、という醜悪な例として、自覚なく笑っているシャロームです。
>
日本にはまだまだクリスチャン人口は少数だと言われています。
しかし、日本人は一般に神の存在を信じている人は多いのではないかとわたしは思います。
ただし、その神がどういう神であるかは、それぞれまた別であるかもしれません。
<
神を唱える者が、神を信じているとは限らないという実例として、
神を恐れないシャローム、罪を悔いないシャローム、人をあざ笑うシャローム、平気で嘘を吐くシャローム、一切の責任を負わないシャローム、経過と結果が乖離しているシャローム、人の言うことを感じることも受け取ることもしないシャローム、どんな愚かな事を仕出かしても、以前からあり未来もあるかのごとき絶対の無視によって忘却し、そんなことは無かったという気分で、季節を愛でるシャローム、あらゆる不都合な状況を思考から排除し、ですね口調の一方通行で語ろうとする性癖だけのシャローム、等々、
今回も、シャロームは、批判コメントを受け付けないブログで、独り舞台を演じています。
ゆえに、
>人が漠然とであっても神の存在を信じているのは、
>人間はすべて神に創造されていることの証拠とも言えます。
これは、偽善の証拠となることはあっても、神の創造の証拠とはなりえません。
>
この日本には、神の存在を信じている人たちが大勢いるとするなら、そこに希望があります。
その人たちに知ってほしいことは、その神がどのような方であるかということです。
<
それを全く知らない人が、神を分かったかのように語り、故意に欺くこともあります。
欺く者は、神のごとく思い上がった自分自身を語っているに過ぎないのです。
>
神の存在は信じているが、
イエス・キリストのことはよく分からないという人たちも少なくないようです。
<
日々キリストを裏切ることだけに熱心なシャロームです。
>
漠然とした神の存在はある程度信じられても、
目に見えないその神についてあまりにもハッキリと示されると戸惑ってしまうからでしょうか。
<
神について、はっきりと示し得た人間は、いません。
>
あなたは自分の心が見えますか。
目に見えないその心があなたです。
<
何も示していない。
>
その心があなたのからだの中に住んでいます。
そのからだは入れ物であって、からだそのものがあなたではありません。
そうですね。
<
体のどこに心が住んでいるのでしょう。
具体的なことが何も分かっていない所在不明の説明です。
どこが、そうですね、なんでしょう。
>
紅葉の美しい季節ですが、聖書によれば、目に見えない神のことについて、
神ご自身が自分はどういう方であるかを二つの方法で示しておられます。
<
以下の示し方で、受け取れるなら、信仰は、とても深みのないものになります。
このように、讃美として示される信仰の言説は、大方、中身が薄く浅くなります。
>
一つは自然を通してです。
自然界のすべてのものに神の美的センス、バランス感覚、温かい心と真実などが表されています。
創造主はご自分が造ったものにご自分のご性質というものを表しておられるからです。
イエスは空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と言っておられます。
自然を造られたその父がどういう方であるかが分かります、と言われています。
<
思い煩うな、につながる大事な聖句を、陶酔気分を盛り上げるのに使っている印象です。
こういう書き方は、カルトが好むと言っておきます。
>
もう一つ、神がどのような方であるかを表しているものがあります。
実は、イエス・キリストを通して、神はご自分がどういう方であるかを表しておられるのです。
目には見えない神が、目に見えるイエス・キリストという方を通して
ご自身がどのようものであるかを見せておられます。
「わたしを見たものは、父を見たのである」とは、何という大胆な言葉でしょう。
誰が言った言葉でしたか。
そうです。イエスご自身が言っておられます。
<
キリストが、そう言ったからと、人は、神が示されたと分かるでしょうか。
神を、見たい、見よう、見せろ、という欲望に対して、
私を見たではないかと言っているキリストの気持ちが分からないのでしょうか。
>「漠然とした神の存在」
神は漠然としているのではありません。
漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
人の知恵では決めつけられない御方ということです。
漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
神は、決して人の見識の対象とはなりません。
私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
(ここは、次の記事で、もう一度、取り上げる予定です)
>《shalomのコメント》
>
私もよく観ますが、なんでも鑑定団は人気馬組ですね。
いろんな作品が登場し、鑑定師の方々の知識や鑑定眼のすごさに感心したり、
鑑定される作品の評価に一喜一憂させられます。
人によってつくられた作品には、作者の心が表現されています。
作者の心にふれると、作品に対する感動は深まります。
<
状況から目を逸らすシャロームの卑怯な心が表現されています。
シャロームの心に触れると、その文章に対する嫌悪は深まります。
幸福そうに目先の人参に食らいつく馬の組でしょう。
>
きのう連れ合いとイオンに買い物に出かけました。
いつもより人出が少ないので楽でしたが、
それでも、ひとりひとりの顔立ちを見ると、
ひとりとして似ている人はいないことにいつもながら感心します。
買い物している人の顔がみんなよく似ていたらきっと大変だろうなと思ったりしてしまいます。
私たちはつい比べて評価をしてしまいますが、さすがは神さまの作品だなと思わされます。
<
似ている人はいるんじゃないですか。探してないだけでしょう。
それで、さっそく、神に結び付けて、さすがは神様の作品、とは、どういう讃美なんでしょう。
ちょいと見た感じで、人それぞれと言いたいのでしょうか。
比べて評価もせず、探し求めもしない、不具合頻発のシャロームのようです。
>
天地万物をつくられた神は新しいものや人をつくられるたびに
“よかった”“よかった”“はなはだよかった”と繰り返されたと聖書には書かれています。
みんな神さまのすばらしい手作りの作品なのですね。
<
神が被造物を善しとされた、良かった、よかった、神が造ったのだから良いのだ、だけが、いつまでも、自分には、ついてくると信じ込んでいる、シャロームです。ここまで身勝手なのは、聖書をまともに読んでいないとしか言いようがありません。
>
一昨日のことでした。久し振りに孫娘に会いました。
中3ですから受験生なのですが、あまり勉強が苦手なようです。
それに髪の天然パーマがしきりに気になるようです。
私も受験のことは気になりますが、あまり聞きません。
これから友達とイオンに行くと言っていましたが、
300円しかないと言っていましたので、1000円渡すとうれしそうでした。
<
こういう状況で、親族を出してくるのは、信仰について何も書けないからでしょうか、でも、不遜な、何でも正当化の、よかった節は、上に書いているのだから、やはり作為的なものでしょう。
>
私も勉強が苦手で、公立高校に落ちた身ですし、
その失敗で私は思いもかけない生き方へと導かれたこともあり、
どんなことでも必ず最善の道を拓いてくださる方と出会えればいいなと思っています。
孫娘はかわいい!
<
シャロームは、想像を絶するような偽善の獣道を暴走しています。自分だけでなく他者に及ぼす悪影響は、はかり知れません。しかも、それを、どんな事態でも、最善の道だと信じ込んで自己正当化に走っているのです。それゆえ、今回も、反省しない不感不応において、いわれなき多幸気分を幸福と言いたいだけの記事なのです。
独裁者が、子供にやさしい場面を見せて宣伝する、というのと同じ方向でしょう。
その意図で、4行目は、感嘆符とともに、実に作為が、わざとらしく、あざとい・・
シャロームは、子にも、孫にも、馬子にも、事情を知らない誰に対しても、顔向けの出来ない自らの陰険で卑怯な状況を、全部、隠していることを、強調しておきます。
そういうときに、平気で家族がどうこう・・と出してきて、巻き込んでいるというのは、冷酷な者のすることです。家族を巻き込んじゃいけない、という配慮が出来ないのです。
シャロームが、今回のように、家族を、出汁や山車みたいに、ダシに使ってくるときには、いっぱい書くことがありそうです。見かけだけ幸福、という、本性が冷血の卑怯な逃げ方を、決して通用させてはいけないのです。シャロームの騙しのテクニックによって、少なくとも言論上の精神的な、そして信仰上の、実害が、コメント欄でも、明らかに噴出しているからです。
正直も誠実もないシャロームの信仰の体質では、猫かわいがりは出来ても、正常な愛し方は出来ないでしょう。歪んだ偏愛になるか、身勝手な従属を強いるようになるか、最悪の場合、憎しみに変わる可能性があります。病的な信仰は、愛を、そして、人間を、破壊します。
自己確信の固定、つまり、自分信仰は、愛を破壊します。
信仰が、正常で健康な愛し方を促進するのは、正常で健康な信仰の場合のみです。
信仰は、つまるところ、愛そのものだから、ダイレクトに影響してくるのです。
(2018年11月23日アップ、同日一部修正)
乖離(かいり)
捏造(ねつぞう)
あざとい ≒ どぎつい、いやらしく派手な
獣道(けものみち)
出汁(だし)出し(だし)、
出しにする ≒ 自己の利益のために悪用する
山車(だし)
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