神を恐れる
前の記事で、次のようなことを書きました。
「神は漠然としているのではありません。
漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
人の知恵では決めつけられない御方ということです。
漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
神は、決して人の見識の対象とはなりません。
私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。」
キリストが父と呼び
私たちが信じる神は
私たちが知らないだけであって
漠然とした神などではありません。
私たちは神について想い考えますが
それは、不正確な想像という罪を承知で
想い考えるに当たってそうするしかないからであって
信仰の内実において神を対象化してはいけません。
神は
人の想いと思考などという有限が向かうところの
対象に並んでいるような御方ではないからです。
神を信じるということは
神についての人の見識の正しさを否定することです。
神についての人の思いを相対的とすることです。
神についての人の情熱を相対的とすることです。
神の御心は変わることはありませんが
神について人が思うことは
そのときの思いに過ぎません。
可能性に過ぎないのです。
だから祈りのうちに
さらなる導きを待つしかないのです。
神と人の契約とは
赦しと救いの約束であり
人が人らしく
神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ
破棄されることはありません。
人が神や神の意志と行為を決めつけることは
自分が神と同等だと言うに等しく
人が神の前に故意に隠し事をすることは
自分が神を騙せると思うに等しく
いずれも
人が神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
それは、神に対する反逆であり
ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。
つまり
神と人の契約を破棄するのは
まさに、人の側でのみ起こることなのです。
神との救いの約束が破棄されることはありません。
あるとき傲慢であっても
そのあと悔い改めて
神を恐れるにふさわしい姿になれば
神の側は破棄していないのだから
救いの約束は恵みとして有効になります。
あらゆる生殺与奪の全能を持つ神に気づき
神を恐れること
それが信仰の節操の始まりです。
キリストに愛され癒やされることに気づき
キリストを愛するようになること
それが信仰の情熱の始まりです。
信仰は人にとって
神がかったと言われるような
超常のものではありません。
神は
人が超常を知らないことを
隅から隅までご存知ですから
超常を知らなくても理解と共感が可能な信仰を
キリストを遣わすことで与えられたのです。
(2018年11月24日アップ)
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
コメント