一喜一憂
 
   一喜一憂からの解放
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28803027.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
どんな決定的な証拠を示しても、シャロームは無視して、訂正不能に、同じことを言い続けるのが信仰だと思っている、ということが分かる記事です。信仰の敵というより人間の敵かもしれません。
 
シャロームの話は、前から私が言っている、ボロクソ節と、最近分かったこととして、何があっても、良かった節、という2つで出来ているようです。
 
塞翁が馬(さいおうがうま)の話を書いているようです。割と有名な話で、幸不幸は変転して、予測できない、という、たとえ話です。
 

面白い話ですが、ここから何か教えられることがありますか。
目先の結果だけを見て、一喜一憂している人たちがいる。
一方で、それに対して、その先を見ようとしている人がいるのですね。

 
上の、たとえ話自体が、あまり一喜一憂しないほうがよい、と教えているのです。
先を見るとか先を見ようとすることが必要だという話ではないです。
人間は、そんなに、先のことは予測できないからです。
 
>1テサロニケ5:18
 
文章で引用しないのですか、ってことで
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
 (テサロニケ5:18、新約聖書)
 
それで、シャロームは、どんな悪いことしても、嘘を吐いても、人を侮辱しても、神に逆らっても、何事も無かったかのように装って、神に感謝して、人間とは思えないほど、相変わらず、いつも喜んでいられるのでしょうか。
 
総てのことに感謝するなんてことが人間に出来るでしょうか。無理にそうしようと思えば、今まで何度か書いてきたような、極めて不自然な、いつも薄笑いを浮かべた悟り顔の、実際には感情の起伏の乏しい、むしろ、何らかの病理を感じさせる人間になります。
 
したがって、この聖句は、文字通りには受け取れない、ということになります。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)1:5
なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
 (テサロニケ1:5、新約聖書)
 
パウロは、伝道の実績をもって、励ましているというべきではないでしょうか。
 
聖句を見ると文字通りに受け取り文字通りにするのが信仰だ、という、鵜呑み思い込み信仰が多すぎます。人間として・・という前提を考えないと、どんどん異常な精神世界を作り出すことになるでしょう。
 
《shalomのコメント》
 
>私たちは一喜一憂します。
 
当然のことなのです。生きておれば、嬉しいことにも出会い、困ったことにも出会うのです。例えば、「(何かの)速報に一喜一憂する」と言うように、当たり前に使われる言葉です。
 
シャロームは、これを異常だと思っているようです。一喜も一憂もしないのが信仰だと思い込めば、シャロームのように、何も感じないで、人間離れした対応をして、異常に気づかず、何をしても後悔も反省もしないで笑っている人になります。
 
一喜一憂がよくないのは、些細なことで、その度に、感情が不安定になる場合です。
 

なぜなら私たちはいつも形あるもの、目に見えるものに
目と心を奪われているので一喜一憂してしまうのですね。

 
目と心を奪われるな、と言いたいようですが、シャロームの場合、自分がしたこと、自分が言ったこと、自分が言われたこと、など、自分の周りに起こったことに対して、完全無視ですから、一喜一憂しないほうがよい・・どころではないのです。
 
シャロームは、たとえ話を、理解せず、悪用しています。こういうことは、聖句についてさえ、シャロームには、珍しいことではありません。誤解と曲解で出来ている精神構造のようです。しかも、そこで固定しているのです。
 

目に見えるものはどんなに私たちの心をひいても、移ろいゆくものです。
それに私たちの心は目に見えるもので満たすことのできない底なし沼のようです。

 
ボロクソ節です。
目に見えるもので満たすことが出来なければ底なし沼になるのでしょうか。シャロームのように、満たすものが何もないことに気づかず、神が満たしている、平安が満ちている、と言っている人こそ底なし沼でしょう。
 

日産のゴーンさんと言えば高額所得者として有名ですが、
どんな高額所得をもってしても心は満たせない悲劇、喜劇が起こっているようです。
神さまは見える素晴らしいもので天地を創造し、満たされましたが、

 
全か無という理路しかないシャロームが語れば、ボロクソ節と、良かった節、になるわけです。
 

人の心はモノでは満たされないので、心を見えるモノで満たそうとしてはいけません。
それを食べるとかえって飢えと渇きによって死んでしまうと言われたようです。

 
1行目は、モノで心を、満たすな、何故なら満たされないから、と言っています。
 
いい加減な書き方をしています。
「言われたようです」と書くのは何故でしょう。聖句なら、なぜ引用しないのでしょう。
 
飢えもせず、渇きもせず、いつもニコニコ笑って、人を侮辱している者もいます。
 

神さまは土塊で人をつくられましたが、神のいのちの息吹を吹き込んで、
人は神の言葉であるいのちのパンを食べて生きる者とされたのです。

 
これが、良かった節です。土塊で造られ、いのちの息吹、神の言葉、いのちのパン、生きる者とされた、・・これを書くだけでは、中身がない、人間が生きるうえで何の良い影響も糧も受け取れない、という空疎さです。悪い政治家みたいな、保身のための臭い讃美ということになります。
 
シャロームは、聖書を読むときに、理解を深めることではなく、クリスチャンが気に入ってくれそうな、少なくとも否定できないような、超常言葉の美辞麗句だけを漁ってきたのではないかと思われてきます。
 
シャロームは、ペテロがお気に入りで、堅実な信仰でありながら、しなやかな信仰、などと言っていましたが、その表面だけを真似ようとしたのでしょう、訂正不能の硬い項と、酸っぱい讃美の白々しさ、などを身につけて、ある時までは、浅はかにも、私も気づかず、騙されていました。
 

口語訳ヨハ
6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。
そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。

 
キリストは、赦されたい癒やされたい救われたいと本気で願う心貧しく低き人を拒むことはありません。しかし、思い上がった偽善者、パリサイ人や、シャロームは、欲望のために信じているので、命ではなく、謙遜芝居と裏の闇の尊大さを生むだけになり、キリストの意図を受け取っておらず、ゆえに、信仰の命を自ら拒んでいるのです。
 
それにしてもシャロームは、拒むのは人の側、という私の記事を、読んで受け取って反論と弁明を考える、ということを全くしていないようです。だから、話が進まないし、同じことを言われて、こちらも同じことを、また繰り返して書かなければいけなくなっています。これが自己絶対化の末路なのでしょう。
 
キリストは、わたしがいのちのパンである、と言いました。そして、命を賭して、人々に、私たちに、いのちを与えました。
 
シャロームは、その聖句を引用しましたが、記事やコメントから、彼が命を受け取ったと思えないのは、パンくずを求める小犬としてではなく、人より上に立とうとする欲望から受け取ろうとしたからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:26-28、新約聖書)
 

【口語訳】ヨハ
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

 
シャロームは、偽善の道を選んでいるために、平安の代わりに、全てのインプットを無視して、自ら捏造し神?と信じ込んだ無刺激の安穏の沼を、神の平安と呼んでいます。聖句とは全然違って、世が与えるものとは異なるのは、シャロームの自家製だからです。
 
刺激のない世界で、戒めの神を知ることなく、懲らしめの神を知ることなく、無自覚ゆえに、心を騒がせることなく、おじけることなく、人を思いやることなく、理路を考えることなく、情緒の深みを感じることなく、反省することなく、過ぎ行く時を、自分という偶像とともに、日々、ずるずる舐めているのです。
 

イエスによって与えられる平安によって、は与えられるのです。

 
イエス・キリストは、
シャロームのように嘘を吐いて、人を貶め、罪悪感もなく、何も気にしない者に、平安を与える・・などとは言っていません。
 
日本語になっていませんが、
「は与えられるのです」の前は何でしょう。書き忘れでしょうか。
推敲をしないのでしょうか。後で何か加筆するつもりでしょうか。
ユーモアのつもりでしょうか。何かの小細工でしょうか。
分からないですかという意地悪な問いかけの笑いでしょうか。
自らの置かれている状況を弁えなくなると、こうなるのでしょうか。
気色の悪い陰謀家でしょうか。変質者の、おふざけでしょうか。
 
自作の安穏を神の平安と呼ばないように。
自作の不感不応の安穏をキリストによって与えられたなどと言わないように。
「イエスによって与えられる平安によって」は与えられる
という、小細工どころではない人の、小細工・・しなくても一緒の。
また、ニヤニヤ笑っているのでしょうか。
謎をかけるような言葉遊びで、罪も偽善も、なくなるなんてことはありません。
こういうことで笑えるのは、気心知れた仲の場合なのです。
状況を考えないで平気で書いてくるのは、良心のないサディストの精神ですね・・
 
自らの置かれている状況を弁えない者が奇妙な書き方をすると、
その意図を巡って、あらゆる疑惑の対象になるということです。
 
シャロームは、荒らしのように他のブログに攻撃的コメントを多量に書き込むことは稀ですが、基本的には、人を見下している荒らしと似たような精神の持ち主です。だから、荒らしと付き合えるのだろうと思っています。
 
シャロームは、実際は、荒らしと仲良くした時点でOUTと言ってよいのです。普通の精神を持っていたら、荒らしに攻撃されることはあっても、荒らしの応援を喜んだりはしないし、荒らしと付き合ったりもしません。
 
「 > st5402jpさん
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
 何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
 2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html 「いのちのパン」
 
 
私たちは、シャロームのような書き方はしないように努めたほうがよいと思います。
 
 
(2018年11月26日アップ、同日一部修正)
 
漁る(あさる)
項(うなじ)
安穏(あんのん)
捏造(ねつぞう)
 
 
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