可知と不可知
 
 
信仰において知るべきことは、
可知と不可知を分けることである。
 
可知は、
人間が人間性によって分かること。
すなわち、人間の心、
キリストと交わった人々の心、
キリストの人々への共感、
キリストの洞察力。
個人に起こる魂の奇跡。
 
不可知は、
神とキリストの意志と計画、
神とキリストの奇跡、
終末に訪れる神の国。
 
人間にとって確信とは、
その時々に
これしかないと思うことである。
信仰についてもこれ以上ではない。
 
人間が確信してはいけないことは、
神の存在ではなく、
神の意志と行為についての確信である。
 
何故なら
神の確信は不変であり
絶対であり、永遠であり、
それらは
人間が持つことも
人間が保つことも出来ないからだ。
 
可知と不可知を分けよ。
私たちは、たかだか、
推測し判断するに過ぎない。
 
私たちが過ぎ去るところに
未練がましく
人間の確信の墓場を残してはならない。
 
私たちは
神から頂戴したパンの欠片で生きてゆく小犬である。
そのパンこそが
人間にとってこの上ない恵みである。
 
可知と不可知を分けない者たちに
頷いてはいけない。
彼らは、実に、
神を讃美しながら罪を犯し
神の義を詭弁で語って偽善を為し
いつも笑って魂を傷つけている。
 
可知と不可知を分けよ。
私たちは、たかだか、
神の前に跪いて憐れみを乞う存在である。
 
跪きながら、
跪く相手を大仰に語るような不遜であってはいけない。
 
神の前に無条件に跪くゆえに
神の前に飾ることのない者ゆえに
神は無条件の憐れみをくださるのである。
 
自分信仰者や偶像崇拝者や偽善者は
理解することはないだろう。
彼らは憐れみに見せかけて嘲笑うだろう。
 
しかし神の前に謙る者は
神の前に人間の弁えを知るゆえに理解するだろう。
 
 
(2018年11月27日アップ)
 
頷く(うなずく)
跪く(ひざまずく)
嘲笑う(あざわらう)
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
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