サイコパスプロダクション
 
 
サイコパスと言われている人格は
一般に、生まれ育つ過程で
虐待を受けることなどによって
必要な罪悪感や反省力が身につかないために起こる
と言われているようですが
 
カルトや自分信仰の
偽善的確信に導く教えの類は
まさに
思春期以降
さらに成人までも
サイコパスに変えてしまうものです。
 
無抵抗な子供でなくても
心に弱みを持つ人や
受けの姿勢で救いに飢えている人に
カルトは囁き掛けるからです。
 
一部の弱者などと思わないでください。
弱みを持つ人とは、善くなるか悪くなるか、
まだ分からないものを持ち始めているところの
信仰者である私たちと求道者でもあるのです。
 
そうだったのです。
何か、うんざりすることや環境が
どうしようもなくあって
そこから逃れたいという欲求があって
聖書とか教会とかいった言葉に
すでに惹かれ始めていた頃の私なのです。
 
心のそういう弱い部分というのは
信仰者になってからも
全て悟って
みんな解消したというわけではなく
むしろ
その弱い部分こそが神が憐れむほどに
大切な自覚となってきている私たち
キリスト信仰者なのです。
 
弱さということが
忌み嫌うべきことだから捨てなければならない
と強いて来る行為義認がカルトであり
 
一方ではキリスト教?の曲解から
弱くても神は救ってくださるから心配ご無用
と罪悪感や反省を捨てて
ありがたや信仰に走るのもカルトであります。
 
神は御自ら人を造り
ご自身よりも弱いからこそ守り導こうとします。
人の中でその弱さを自覚して
神の前に故意に偽ることをしない人が
神によって信仰と伝道の道を与えられます。
 
神の導きは現象としては成り行きとして経過するので
その導きを人が知って歩むことになっているとか
決めつけてはいけません。
いかなる導きか人には分かりません。
しかし、折に触れて、
あれは導きだったのでしょうか・・と思うことはあるでしょう。
 
救われる人に共通しているのは
弱さの自覚があること、
あるいは弱いとしか思えない立場であることが
聖書には書かれています。
そして今もそのように経過しているのです。
 
 
特に弱さについて
人間的共感、人間としての共有、
そういった人間ならばできるはずの、
神の前に
いちばん捧げられるべき大切な心の弁えを
捨ててしまったところにカルトはあります。
 
罪は赦されるから気にしない
とか
完全になれるのです
とか
高みのワンサイドから単方向に
訂正不能を真理として擦りこんでくるような
秘密の闇の生業がカルトです。
 
御言葉絶対から
御言葉解釈絶対へと導いて
一字一句間違いのない確信のつもりの
自説絶対へといざなう広き門から
底なし沼への
ぬるぬる坂を堕としてゆくのがカルトです。
 
カルトは伝統宗教に似せて作られることもあり、
また伝統宗教の中からも生まれています。
 
 
そして大事なことは
原罪に塗れて
救いをキリストに求めている私たちも
ときにカルト的発想やカルト的理路を辿ることはある
ということです。
めんどくさくなると
断定して豪語したくなります、
讃美と感謝で日常を満たそうとします、
いけない、いけないと、邪念を払おうとして、
かえって教理の袋小路に向かってしまい、イライラする、
これも、私たちです。
 
どこがカルトと違うかというと
分からなくなった場合の逃げ道があることでしょう。
それは
迷いも邪念も袋小路もイライラも
全て正直に告白して赦しと癒しと導きを乞うところ
すなわち祈りという避け所があることでしょう。
 
 
カルトや偽善者にとって、避け所は、
自らがねつ造した自己確認のねぐらに過ぎません。
 
人の弱みを見つけては
そこににつけ込むのがカルトです。
日夜、丁寧語の世辞か、逆に罵詈雑言によって、
カルト信者をプロデュースし、教条をプロテクトしています。
プロテストされ都合が悪くなると
神?の避け処?などと言って
自らの垢と排泄物の溜まっている安穏の沼に逃避します。
そしてまた、何事も無かったかのように
白々しく丁寧な挨拶から始めて
人の作為のおぞましさを体現してゆくのです。
 
 
人の弱みを洞察して憐れんでくださるキリストが
命を賭して導いてくださる信仰です。
 
キリスト信仰は
罪人を憐れんで神が用意されるところの
祈りを避け所とする信仰であります。
 
 
(2018年11月28日アップ、同日一部修正)
 
囁く(ささやく)
塗れる(まみれる)
生業(なりわい、せいぎょう)
垢(あか)
安穏(あんのん)
produce = 生産
protect = 保護
protest = 抗議
 
 
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