聖書の読み方(私の)
 
 
私は読書障害の傾向があるようなので
読書は嫌い←苦手←遅いです。
だから聖書、全部読んではいません。
 
しかし
私がキリスト者のつもりなのは
洗礼を受けたからではなく
聖書の言葉に救われたからです。
 
最初に心を揺さぶったのは次の聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:34
あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:34、新約聖書)
 
また、聖書と讃美歌と説教によって与えられた言葉が
 
永遠の友、永遠の同伴者
 
という言葉です。
 
これは私を救ったのだから否定しようがなく
仮にもし解釈が今と大きく異なることがあって
今の受け取り方では救われないと言われたら
私は言うでしょう。
「分かりました。あなたの言う救いは要らない。」と。
上の聖句も言葉も
全然違う意味になることは考えにくいですが、
何が言いたいかと言えば
 
私はこの時点で、
この聖句につながるところだけは、
誤解があるとしても、
さらに心を揺さぶられるまでは、
聖書を読んだ自覚になるということです。
 
聖書に感動し
聖書に心を揺さぶられた体験は
信仰として否定しようがないからです。
 
完全ではないが
救われたから信仰者になったのです。
 
聖書の他の厖大な文書については
・・読んだことにはなっていない・・
と申し上げます。
 
ですから
キリスト者には
聖書を毎日熱心に読んでいる人も多いでしょう。
 
申し上げたいことがあります。
教えられたとおりに覚えて
聖書を読んだことにはしないでください。
 
頷いても心と人生に生きて来なければ
聖書を読んだことにはならないのです。
 
ですから
私たちは殆ど聖書を読んでいません。
読み得ていません。
 
聖書に示された神の言葉は
人によって
殆ど理解されていません。
 
分からないことはいっぱいあると思います。
標準的でも、独創的でも、カルト的でも、
解釈を覚えて読んだことにだけはしないでください。
 
以前から私が
分からないことは分からない箱に、
あるいは、保留の箱に入れておきましょう
と言っているのはこのためです。
 
恐ろしいほど
都合の良いところだけ
都合の良いように受け取って
慢心している偽善者がいるからです。
その自他への破壊ぶりは酷いものです。
 
そのような自己正当化のためだけに
カルト的な解釈を呑みこむくらいなら
信仰など持たないほうが余程マシだと思っています。
 
聖書は神の言葉でも
人の言葉で書かれている文言を
人の解釈で鵜呑みにしてはいけません。
神の真理は
そうやすやすと理解に至ることはありません。
解釈次第の謎だらけと言ってもよいくらいです。
 
標準的な解釈であるとか
教理や信条といったものは知識であります。
知識が全て人を生かすわけではありません。
知識は心か頭の本棚に過ぎません。
 
読んだ、受け取った、理解したと言えることは、
ごく僅かであり、
ひょっとしたら一言なのかもしれません。
しかも、それは、つまり、
人間の心に響いて、心を揺さぶるのは、
言葉ですらないかもしれません。
 
このことは、とても大事なことです。
聖書の一言で生きている人もいるでしょう。
暗唱するくらい読んでも本棚に過ぎないこともあるのです。
 
知識から感動が生まれることは推測できます。
目を通したことがなければ感動は生まれないだろう
ということも分かります。
 
しかし
毎日読んでいるから
だからいっぱい読んだことになるから
分かっているなどと思わないでください。
 
でっかい本棚よりも
分からない自分を自覚することにこそ
全知全能の神は注目しておられるでしょう。
 
何故なら神は人の及ぶ能力の憐れむべき限界を
既にご存知ゆえに
救いの手を差し伸べておられるからです。
 
前から言っていることですが、
分かった、わかっている、見える、守っている、
と言って
分からない、見えない、守れない、
という憐れむべき人間存在の立場を忘れた者たちは、
それゆえに
救いを必要とする自らのことを忘れているからです。
 
謙遜、謙虚、敬虔ということは、
控えめに、口数少なく、などと誤解されやすく、
もっともですねと、一見、分かりやすく、
その分、安い道徳になりやすく、さらに、それは
邪悪なことを教える者にとって都合よくて、
それゆえに信仰を堕落させてゆく大きな要因です。
 
いつも、哀れな、かわいそうな自分であれ
と言うことではありません。
信仰はお芝居ではないのですから。
 
しかし
全知でも全能でもない人は
全知全能の神から見れば、
いつも哀れで可愛そうな存在でしかない
ということを忘れてはいけません。
 
神をキリストを聖霊を
そして聖書を
理解するのがキリスト者ではなく
理解しようとして
人知を超えたものを理解できない恐れを知っているのがキリスト者です。
 
信仰の大方は弁えました
と言うのは
何も弁えていない証拠です。
 
人は高々判断し実行し反省し祈るのが精いっぱいです。
 
分かりましたと
知識量で神の手伝いをする態度ではなく
分かりませんと
情に流されてお願いばかりをする態度でもなく
 
知識を得て慢心せず
知識を得ようとしないで窮乏することなく
 
不全ゆえに完全の助けを必要とする人間として
聖書を読み、何らかの言動を為し、反省して祈り、
日々全能者たる神への恐れを表すことが
信仰者の敬虔です。
 
 
(2018年12月19日アップ)
 
頷く(うなずく)
敬虔(けいけん)
酷い(ひどい、むごい)
窮乏(きゅうぼう)
 
 
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