敬虔の裏返し
 
 
性格や言葉が荒っぽくても
敬虔であることは可能です。
神を恐れ
その神に比べて
自分の低さを知っておれば
敬虔は自然と表れるからです。
 
そういう人はいると思います。
 
どんなに丁寧でも
どんなに聖句や教理を語っても
正しい立場から教えるようになって
無反省でいると
それだけで敬虔は崩れてゆきます。
 
そういう人はいると思います。
 
 
正しい立場というのは
信仰者にとって神の立場に等しいのです。
つまりそこには立てないし
立ってはいけない場所なのです。
 
人が人に正しい信仰を教えられると思い込むことも
人が神の立場に立つことであり
少なくとも預言者以上の聖なる立場を気取ることになり
敬虔からは逆の立場になります。
 
伝道に必要なのは正しさではなく
同じ人間としての共感であります。
教えるのではなく問題と立場を共有することです。
同じ人間として神を仰いでいるからです。
 
 
自己の信仰観を神の意志と同一視した者は
神の意志を表そうとして
身の程を弁えずに高みに立ち
その高みから一方向で教えようとします。
 
好きなように聖書を曲解して
逆らう者の意見を抹殺し
逆らう者をカルト呼ばわりし
保身のために詭弁を弄し平気で嘘を吐き
悪魔の誘惑という誘惑に嵌って
神から聖霊からの啓示と思い込んで
慢心と満悦からの自己正当化によって
賛同意見以外には応答できなくなり
異なる意見をことごとく捨ててしまうので
成長することがなくなり
鈍麻することが多くなり
知性も情性も破壊されてゆき
しまいには
みすぼらしいボロボロの粘土細工のように
二目と見られぬ醜い有り様になります。
 
 
信仰者も
一時的に思い上がることがあり
自己中心に、また保身的になり
傲慢になることがあっても、
神を恐れるならば
神の前に低く小さい自分を知り
修正不要ではなく
修正可能であるために悔い改め
いつでも神のもとに戻れるのです。
 
そこが信仰の命綱です。
 
戻れない訂正不能になってはいけません。
 
神の御心だからと
訂正不能にするのは間違っています。
 
神の御心を知りたいのなら
一生涯
成長可能な心を
神に対して向け続ける必要があります。
 
「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と
神を讃える信仰があるなら
人が栄えを手にしたかのような
有頂天も威丈高もありえないはずです。
 
 
聖書の言葉を覚えるのと
神の御心を覚えるのは違います。
 
聖書の言葉を覚えるのは人にも出来ます。
聖書があり記憶は人が正すことが出来るからです。
 
神の御心を人が心に覚えることは出来ません。
心を見極めたり保持したりすることは出来ないからです。
 
あるとき神が人に働きかけたとしても
人にはその時から
ずっと御心を保存できるという保証はありません。
人はいつも
新しく受け取って成長するからです。
また
ときに反省して祈ることが必要だからです。
 
人は心の中身を固定することは出来ないと考えるべきです。
何かが心から失われたとき
人は何が失われたかを確認することが出来ないからです。
 
ましてや神の御心を
言葉以上に
心に固定してとどめることなど決して出来はしません。
 
修正可能ゆえに成長可能という自覚だけが
人が心がけて
いかなるときも人の心を神に向かわせ
神のもとに人の心をとどめる弁えになるでしょう。
 
人に出来るのは
自分が神の御心を心にとどめることではありません。
神が御心に自分をとどめてくださるように努めることです。
 
私たち信仰者は
荒っぽくても丁寧でも言い方は様々でも
御心を受ける用意があることを
祈りによってアピールし続けることが必要であり
それは時々の信仰告白であり
まだ不十分であることを承知しておりますという不信仰告白です。
 
以前にも言ったことですが
私たちの精いっぱいの最大の信仰告白は
不信仰告白に他ならないのです。
 
信仰を偽りで裏返した偽善とは全然逆であるところの
 
これが
裏返しに見える信仰の世界であり
信仰の裏返しの不信仰の告白が敬虔ということであります。
 
人間が自らの信仰を誇ることのないために。
 
 
(2018年12月20日アップ、同日一部修正)
 
敬虔(けいけん)
弁える(わきまえる)
抹殺(まっさつ)
詭弁(きべん)、弄する(ろうする)
傲慢(ごうまん)
命綱(いのちづな)
居丈高(いたけだか)
有頂天(うちょうてん)
 
 
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