ロボット詭弁
 
 
キリスト信仰においては
とても寛容なところと
そこを外しては成り立たないという厳密なところがあります。
 
キリスト信仰が人間において成り立つ理由は
全知全能の神が
多くをご自身で負われており
人間に可能なことしか要求しないところにあるのでしょう。
 
悔い改めて信仰者になるキリスト信仰においては
悔い改めは人の自由意志においてなされる必要があります。
そこが非信仰者から信仰者へと進む門だからです。
 
 
さて
過去に一度も反省したことがなく
悔い改めない者がいます。
 
悔い改めを思わせる文言が一度も見られなかった人です。
 
その人が
悔い改めが必要かどうかを聞かれて
悔い改めが必要だと答えました。
悔い改める気など微塵もないくせに。
 
ここからが詭弁です。
 
彼は
悔い改めも神からの恵みであると言いました。
詭弁です。
 
悔い改めも神が人にさせるというのでしょうか。
ロボットのように神が人を操り
悔い改め作業をするとでも言うのでしょうか。
 
その者は
信仰をマニュアルのように
聖書語の辻褄合わせだけの詭弁で語り
人間の思慮も情感も共感も無視してきた人です。
救いは全部どんでん返しの奇跡で起こると言っていました。
後は
やたら神を讃美しまくって誤魔化してきた人です。
人間をまるで物かロボットであるかのように
神が操って
それで信仰者と神のつながりになるというのでしょうか。
呆れます。
 
さらに
それだけでは誤魔化せないと思ったのか、
悔い改めに導かれるのだとも言いました。
これも詭弁です。
数々の欺瞞と嘘と詭弁が既に明らかになっているのですが、
悔い改めに導かれて悔い改めた形跡が何もないのです。
 
これらのことを嫌みとともに語りながら
悔い改めはどこにも表れておらず
彼はしっかり自尊と敵意と訂正不能を表していたのですから。
 
 
単純明快な理屈ではない信仰において
直感は大切ですが
直感と単純な思い込みとは違います。
 
直感と言っても
それは人生を変えるほどの体験であり
気安く取り繕った辻褄合わせの詭弁では決して語れないものです。
 
カルトに対しても
なりすましクリスチャンに対しても
宗教など適当でよいと思っている向きに対しては
罪、罪悪感、悔い改め
という人間の側の問題において
気安さと辻褄合わせと詭弁による誤魔化しを見過ごさないことが大切です。
 
こういう傾向は
何か事があって問い詰められたときの
信仰者にも起こりうることです。
 
これらを明らかにするには時間がかかるかもしれません。
しかし疑いをいだくことは出来るでしょう。
 
 
前に何度も言いましたが
もう一度
 
キリスト信仰においては
神が成就の荷を負われるゆえに
神が人に要求することは
人間の正しい行為ではなく
人間の積極的な自由意志によって
神の前に精一杯の正直さを示すことです。
 
それは救われる条件ですが
条件というより弁えと言えるものです。
 
それゆえキリストは
「わたしのくびきは負いやすく、
 わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:30より)
と言われたのだと思います。
そしてキリストは自らの命を捧げたのです。
 
キリストの十字架によって人は正しくなったでしょうか。
否であります。
信仰によって生まれ変わったから正しくなったのではなく
悔い改めによって赦される道が与えられたのです。
 
もう一度申し上げます。
悔い改めて信仰者になるキリスト信仰においては
悔い改めは人の自由意志においてなされる必要があります。
 
そこが非信仰者から信仰者へと進む門だからです。
 
それゆえ信仰においては
決して神が恵みを与えるだけという単方向ではなく
 
信仰においては
神の導きと人の自由意志とによるところの
神と人の双方向が成り立つのです。
 
 
(2018年12月21日アップ、同日一部修正)
 
詭弁(きべん)
誤魔化し(ごまかし)
微塵(みじん)
辻褄(つじつま)
欺瞞(ぎまん)
操る(あやつる)
 
 
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