信仰宣言?
信仰者が人に向かって
神はいるのです!・・と断言するとき
信仰者は必ず
背負ってはいけないものを背負おうとしている。
自分では余計なものを排除したつもりで。
そのとき人は
人の秩序だけでなく
人と神との関係
そして神の秩序まで整えて
背負ったつもりで断言している。
人が神の秩序を整える?
なんて出来るはずがないのに
呑みこんでいるつもりなのだ。
信仰者は神の存在を断言するべきなのだろうか。
信仰者は否定できないことを告げるべきではないか。
否定できないこととは何か。
信仰者にとって
神がいないならば生きてゆけない
ということではないのか。
なぜ背伸びしようとするのか。
それは信仰者が
自分のプライドを守ろうとする行為ではないか。
自分はちゃんとしていて
ちゃんとしている神を信じている
という虚しい言い張りではないか。
なぜ信仰が必要なのか。
自分がちゃんとしていないからだ。
なぜ自力でちゃんとしていると言い張るのか。
人が神の存在を言い張ることで
神の存在がちゃんとするわけではない。
神の存在は
神の存在である。
人によって変わることはない。
無駄に力むよりも
語るべきは
聖書に表された神に自分が
救われたゆえに信じたということだろう。
その救いは一回で終わるわけではなく
地上の信仰者の生涯にわたるものだ。
救われて万歳ではなく
キリストとの付き合いは一生続くのである。
であるならば伝えるべきは
自分が聖書の神から何を受けたのかであり
むしろ神の存在か不在かを問われることは
伝道の機会なのである。
言い張って済むことではないのである。
神の存在か不在かを問われて
人が相手に存在を説得できると思ってはいけない。
相手が神を信じるかどうかは
究極的には相手と神との問題である。
言い張って解決することは何もない。
そこで詳しく正しく
聖書や信仰について言えるだろうか。
否である。
恐らく短兵急になり混乱して
双方とも心を病みそうになるだけだ。
詳しく言う必要はない。
神の存在より自分の存在を端的に語ればよい。
自分はどうかと言えば
神の御心に沿っているとは言えない存在である。
信仰告白でありながら自分を表せば表すほど
不信仰告白になってゆく自らの
逆説のように砕かれてゆく魂において語るべきである。
偉そうなことを言ったり
他者を無言のうちに裁いていたり
福音伝道から離れることをしていて
ちゃんとした自分を表す資格がないと知るならば
それが自分という信仰者であるなら
整っていない世界に整わないまま生きている人間として
これで神がいない世界と思ったら生きられない自分を表すべきである。
(2018年12月23日アップ)
呑む(のむ、飲む)
短兵急(たんぺいきゅう)≒ だしぬけ、ひどく急な
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