自己中信仰
 
  今あるは生ける神の恵み!
  
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
   by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、コメントに書いたことを記事にしています。ここで、改めて、恵みだけを与える神を信じて反省することを忘れた偽信仰が、いかに、訂正不能の身勝手を表しているか、いかに恐ろしいか書くことにします。
 

(省略)
ほかに病気知らずの生活をしています。
今あるはすべて主の恵み!金婚感謝の一年でした。

 
自分が、いかに、神に守られているか、という、自己中心に歪曲した事実の解釈を書いています。そのような現世的な神の依怙贔屓を信じる信仰は、キリスト教にはありません。
 

改めて主の恵みを感謝して、私の信仰告白を記します。
長年ブログで私の生き方、信仰に対して手厳しい批判をされ、
今も続けておられるstさんへの返信コメントをそのまま記念として転載しました。

 
信仰告白だそうです。それが、いかに、身勝手な思い込みであるか、シャロームの驚き呆れる信仰の有り様が表れてきます。前にコメント欄に書いたことから、シャロームに都合よいことを選択して、記事に載せていますが、実際は、いかに道理も恥も知らないか、ということをを表す結果になるのです。
 

私にとって一番大事にしていることですから、あなたがどんなに批判しても、いつでも、いつまでも繰り返しますよ。私は自分に弱さもあり、多くの過ちも犯しましたし、決して清廉潔白だとも思っていませんが、それはイエスさまがすべてご存知です。しかし、イエスさまがペテロに言われた「罪の赦しについて3回までとは言わない。7の70倍赦しなさい」と言われた赦し、つまり無限の赦しを、イエスさまの十字架の死による罪のあがないによって与えられていることを固く信じるからです。

 
過ちを犯した、清廉潔白ではない、と言いながら、聖句を悪用して、どれだけ罪を犯しても無限に赦されると豪語しています。
 
それが全ての人に起こったら、この世は争いと殺し合いだけになるだろう、というようなことを信じているのです。
 
それとも、自分だけは赦されるのだ、と言うのでしょうか。だとしたら、それこそ、神は、依怙贔屓の神ということになります。そして、シャロームは、神がシャロームだけを守る依怙贔屓を信じているわけで、いったい、どれだけ、自分が特別だと思っているのか、という、呆れた自己中だということです。良識による判断がまるで出来なくなった者の壊れ方です。
 
聖句を考えてみると
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:21
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
 (マタイ18:21-22、新約聖書)
 
ペテロが尋ねているのは、他者が自分に対して罪を犯して、自分が他者を赦すという場合だということが明らかです。自分は、罪を犯す側ではなく、赦す側です。ですから、キリストは、限りなく赦すべきことをペテロに教えています。
 
この教えには、情欲の聖句や敵を愛する教えと同様の逆説的な解釈が必要になります。
 
私の考えでは、
ペテロは、どうすれば、救いに値する人間なのかという行為を尋ねたのに対して、7×70倍まで赦せという無理難題を言うことで、人間は何をされても無限に赦すなどということは出来ないことから、赦せないという人間の罪性ということをもって、罪なき者は一人もいない、すなわち、全ての人は、悔い改めによる神の赦しが必要だと、キリストは、用意されている救いとして、行為義認ではなく、信仰義認を教えている文脈だろうという解釈です。
 
義人は一人もいない。人は完全な義人にはなれない。罪なき人は一人もいない。
ゆえに、悔い改めて、神に赦されることが必要だ、という意味に受け取っています。
 
それを、シャロームは、ペテロとは逆に、自分が罪を赦されることばかり言っているのです。シャロームが、何をしても、無限に赦されるのだと豪語しているのです。シャロームに、聖書と信仰を聞く人は、こういうことを教えられるのです。シャロームに、いかなる牧師の権限も与えるべきではありません。
 
シャロームは、またしても、信仰告白と言いながら、背教宣言をしているのです。
 
そして、そこに神の名を掲げるという傲慢不遜によって自己正当化をしています。
 

それは人の論理や心情にとって納得と共感を得られる考えでしょうが、信仰によってのみ与えられる神の恵みです。パウロは「あなたがたが救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである」と書き、「すべて信仰によらないことは罪である」とさえ書いています。

 
シャロームの解釈は、信仰による恵みではなく、我欲による実に悪質な詭弁です。
信仰によるからこそ、人間は自分で悔い改め、その祈りを神に捧げるのです。
 

悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。

 
この嘘については、別の記事に書いたと思います。悔い改めに導かれて悔い改めたのであれば、それは、書いた文章にも表れてくるはずです。それほどに、悔い改めと赦しは、人間とその価値基準を革命的に変えるからです。しかし、シャロームは、悔い改める必要はないとは言いましたが、その後、悔い改めた跡が、書いてきた文章のどこにも表れてはいないのです。
 
注意してください。シャロームは、悔い改めが必要、悔い改めに導かれる、ということは書いていますが、悔い改めます、悔い改めました、とは、一言も書いていません。
 
問われたから、苦し紛れの言い逃れとして辻褄を合わせた詭弁なのです。こういうことを平気でやってくるのが、シャロームという嘘吐きの偽善者なのです。
 

ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。

 
悔い改めによって私は自分を義としてはいません。何故なら、私は、神の前に、自分を義とするような恐ろしいことは出来ないからです。それは、完全になれるというカルトのわざです。
 
また、私は、悔い改めによって誇ったりもしていません。悔い改めることは、誇ることとは逆方向です。シャロームは、そんなことも分からないのでしょうか。
 
シャロームの言うところの、神に与えられる悔い改めは、人間の自由意志ではなくロボットのような操り人形の行為なのでしょうか、それとも、シャロームは、神が悔い改めの恵み?を与えるのを、人間としては何もせずに、待っているのでしょうか。まるで、空を見上げて、アパ~ンと口を開けて、空からマナが降ってきて口に入るのを待っているかのように。
 
>誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです
 
誇ったりはしていません。裁くのは、結局、神であります。
悔い改めをしていないと批判することは出来ます。それをしなかったら、シャロームのようなカルト的な信仰が地上に溢れてしまうでしょう。おかしいと思うことを、指摘するのが批判です。
シャロームは、批判するなと言いたいようですが、それは反論も弁明も出来ないからです。
 
>そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、
>人の自我から生じた肉のわざなのです
 
また、悔い改めは人間がする行為なのに、シャロームは、神から与えられるものであるかのように言っています。
 
悔い改めの機会は与えられるでしょう。しかし悔い改めそのものは、人が自由意志でしなければいけないことです。それによって、人は、俗と欲に塗れた世界から信仰の門を通り、信仰の道を歩むのです。道を外れたら、また悔い改めることになります。それが信仰です。
 
悔い改めは、神から与えられるものだ、神の恵みだ、と言いながら、いつまでも、いつまでも、悔い改めようとしないで済ませようとするのが、シャロームの偽善です。
 
すでに書いたように、シャロームが我欲から発して言い逃れようと弄しているのが詭弁であり、
シャロームの自我から生じた汚い汚い肉の技なのです。
 
今も、はっきり言えます。シャロームのようになってはいけないと。
 
シャロームは、聖書の解釈の歪曲と訂正不能によって、自己の信条の不感不応となってしまった偽善の悪性と悲劇の実例として、表れて、表されてきたのです。
 
シャロームは、詭弁の自説を、言い張って、言い張って、その果てに、口を開けたまま、薄笑いか、怒った顔のまま、硬直してゆく屍となるのでしょうか。
 
私たち信仰者も、ときに嘘を吐いたり、詭弁を言ったりはするでしょう。しかし、シャロームとの違いは、いつでも反省して、悔い改めるならば、キリストのもとへ帰ることが出来るし、神も顧みてくださることを知っている、ということです。
 
 
(2018年12月27日アップ、同日一部修正)
 
呆れる(あきれる)
依怙贔屓(えこひいき)
塗れる(まみれる)
詭弁を弄する(きべんをろうする)
屍(しかばね、かばね)
顧みる(かえりみる)≒振り返って心に留める。
 省みる(かえりみる)≒反省する。
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]