偽善者の友達
 
   釈迦とイエスの違い
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839382.html
    by shalom  (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
私のブログを荒らした易坊、および、「バーカ」などの罵詈雑言を遠慮しないエクゼル、といった危ない人たちと、シャロームは仲良しです。シャロームは、今回、易坊ブログから遣り取りをコピーしてきました。
 
(易坊)

イエスは自分が見捨てられても、自分を見捨てた人たちを見捨てませんでした。
どっちがいいとかわるいとかじゃなく、釈迦とイエスの違いはここかも。

 
(エクゼル)

うん、そうだね。でも、キリスト教のそれは建前だ。誰もできないことを尊いこととしている。
 仏教は誰でもできる「捨てる、関わらない」ことが苦を滅することになると教えている。

 
十字架の贖いなど教理を振り回す必要もなく、キリストは、現代では、天におられる存在として、また同時に、臨在する存在として、誰も見捨ててはいないと思います。キリストに無関心か、キリストを見捨てている人がいるだけです。
 
(エクゼル)

聖書に書かれているにもかかわらず、イエスの言葉にもかかわらず、クリスチャンは妻や子を捨てない。

 
全か無の受け取り方です。信仰者は妻子を捨てろとは言っていないでしょう。信仰が、世にある物や人と価値が一致するとは限らないということです。また、そういう場合、この世に執着して、罪を犯しますが、告白と悔い改めによって救われる道が、キリストによって、与えられています。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
10:23
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
10:24-25
弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。
イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
10:26
すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
10:27
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
10:28
ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
10:29-30
イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
 (マルコ10:23-30、新約聖書)
 
捨てたものが祝福を受けるというのは、捨てない者が救われないという意味ではなく、すなわち、戒律による縛りではなく、祈りの道が用意されているというのがキリスト信仰です。
 
(エグゼル)
「後の世では永遠の命を受ける。」に対して

イエスのためにすべてを捨てたら「後の世では永遠の命を受ける」んだ。死後の褒美なんだ。死後の褒美が欲しいから捨てるんだ。

 
死後の褒美だけで、キリストを信じる人は、恐らく、一部の夢想家であって、それだけの人は、極めて少ないと思います。信仰は、生きるためにあります。真の信仰者は、魔術のようにではなく、キリストを好きになり、信じ、それなしでは生きられないと言うほどのあり方として、信仰を持っていると思います。
 
(マルコ福音書)

10:32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
10:33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
10:34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

(シャローム)

なぜなら、このことがイエスが人にはできないが、神にはできると言われたことそのものを示しているからです。
そのイエスの苦難、死、よみがえりの出来事の
 そのあとに、弟子たちは
「イエスは自分が見捨てられても、自分を見捨てた人たちを見捨てませんでした。」…というイエスとイエスの言葉の真実を体験したのです。
そのまえの弟子たちはイエスが獄に入れられても、殺されるようなことがあっても、決してイエスを見捨てたり、裏切ったりしないと誓ったのです。
しかし、実際にはみじめな自分を突き付けられたのです。
それが弟子たちのみならず、私たちの本当の姿なのです。
そんな私たちが
「わたしのためまた福音のために」なんだよ。
イエスはイエスのためまた福音のために、すべてを捨てろと言ったんだ。・・・
 と言われても従うことができるはずがないのです。
ですが、やはり、その後のことも、人にはできないが、神にはできるとイエスは言っておられるのです。
 事実、弟子たちはその後みな殉教しました。

 
シャロームは、マルコ10:27聖句の、神にはできる、を繰り返していますが、解説をしていません。何故なら、悔い改めによって赦されるのに、シャロームは、それをしていないからです。
 
(シャローム)

今イエスを信じている私は弱く、相変わらずイエスの言葉に従って命を捨てて従う強さはありません。
が、しかし、自分の弱さを通して働かれるイエスの助けと導きによって、イエスの姿に似たものと変えられる聖化の道を導かれ、生かされているのです。
その道は信仰の霊的戦いの道ですが、
「後の世では永遠の命を受ける。」…という栄化という確かな救いに至るいのちの道なのです。
 確かな救いの道ですが、決してきれいごとの道ではありません。
その救いも「人にはできないが神にはできる」神にのみできる救いの御業なのです。
 神がイエスによって成就される救いは罪のあがないによる新生、弱さを通して働かれる神の清めの働きである聖化、栄化という永遠の命に至るプロセスすべてを指しているのです。

 
シャロームは、自分で何もしなくても、今までのように、嘘を吐いても、罪を犯し偽善を働いても、聖化されると言いたいようです。シャロームは霊的闘いなどしておらず、ひたすらこの世の安楽を求めているだけです。
 
シャロームという化け物が、聖化に栄化にと、神聖の救いの言葉を弄するのは、全部、神が、手取り足取り操ってくれると思い込んでいるということです。したがって、シャロームは、罪の贖いと救いにつながるキリスト者の負いやすい務めさえ、一切果たしていません。ゆえに平気で嘘を吐けるのです。
 
(エクゼル)

キリスト教は「原罪」を発明して、人は生まれながらにアダムとイブの犯した罪を原罪として引き継ぎ持っている。その罪をあがなうのがイエスであるとするんだよ。
ところがね、ユダヤ教はね、「原罪」の概念も存在も認めていない。
イエスの存在価値を高めるために、イエスが登場した意義を強調するために、イエスが神であるとするために、原罪を発明したんだよ。

 
なぜ、ユダヤ教に言及する必要があるのでしょう。キリストによって、キリスト教という宗教は完成されたと信じるのが、キリスト者です。信仰は、それを受けて個人の歩む道です。
 
シャロームの信仰?は、キリスト信仰として、あまりにも外れて、むしろ逆になっているので、キリスト信仰でもなく、キリスト教でもないのです。
 
人が完全ではなく罪を犯す、ということを分かっている人は、原罪を認めることに、それほど抵抗はないでしょう。原罪が発明だと言う人は、自らの罪の性質に自覚がないのだろうと思います。
 
 
(シャローム)
> エグゼルさん

事実と真実の違いについての凡人さんとのコメントはとてもいい学びができましたが、
聖書に書かれたことで、あることは宣教用の物語、あることは事実、あることは作り話だと人が判断するのはその人にとっての真実ということなのでしょう。ですから、エグゼルさんの判断はエグゼルさんにとっての真実だと思います。その上にエグゼルさんの世界観、価値観、人生観が構築されているのですね。

 
真実が人それぞれあってよい、と認めるなら、どこにも存在しないんだよ、と言っているのと同じです。シャロームは、自分の妄想を正当化するために、キリスト信仰をバカにして、破壊しています。そして、人間の良心が追求するべき真実を否定しているのです。それが、シャロームを支配しているのは、キリスト信仰ではなく、キリスト信仰に対する憎しみと恨みではないかと私が思う理由です。
 
(シャローム)

聖書に神による啓示としてイエスの言葉、みわざ、死、よみがえり?など書き記されていますが、誰もひとがそれがすべて事実であると証明はできません。しかし、聖書には証明される方がおられると書かれているのです。神の言葉は人知では理解できませんし、人には証明できませんが、神には証明できると聖書は証言し、その方についてイエス自身もご自分の死を前にして、あるいは死後、よみがえられた後、弟子たちに語られ、そのイエスの言葉が弟子たちに実現した出来事が記録されています。神は時空を超えた方で、今も生きておられ、聖書に書き記されたご自分の啓示された事実が真実であることを今も証ししておられます。イエス・キリストはきのうも、今日も、いつまでも変わらないとの言葉も聖書にかかれています。

 
シャロームが、神は人知を超えた、という時、それは、シャロームが、神もキリストも、何も分かっていませんと言っているのです。分からないなら、分からないと言えばいいのに、分かりもしないのに、人知を超えた、時空を超えた、啓示、証、などと、超常と神聖の言葉をもてあそんで、結局、自分が、何も分からないのに、正しいと、平気で嘘を吐き、偽善を行っているけど、正しいと、言い張っているだけなのです。この幼稚で身勝手な文章の偽りを読み取ってください。
 
(シャローム)

聖書を神のあかしの書として読み、その真実にふれるためには、人の知恵や知識、経験ではなく、イエスが生前、死後よみがえられ弟子たちに遣わすと約束された助け主である真理の御霊の証しが必要だと聖書は語っています。
その事実なしには生けるキリストのからだとしての教会もこの世に生まれ出ることはなかったでしょうね。それ以来今日に至るまで様々な議論が続けられていますが、いまだ決着はついていません。神自ら決着をつけられる時が来るでしょう。

 
神が人に与えた知恵や知識や人生経験という賜物と導きを、何一つ使おうとせずに、真理の御霊の証しという誰も実感できないようなことを、わざと言って、信仰らしく見せかけるペテンの筆致は、昔から少しも変わっていません。
 
このような幼稚な詭弁で言論をなしたつもりでいられる人は珍しいと思います。それは、彼が、自らの妄想を絶対化して固定して、罪悪感をいだけないし、恥を知らないから、何と言われても、同じ愚かなことを言い続けられるのでしょう。
 
シャロームは、
聖霊または神の啓示だから議論の余地がないと言ったことを訂正していません。
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいと言ったことを訂正していません。
シャロームは、
最近は、悔い改めが必要だ、と言いながら、悔い改めた、とは言っていません。
悔い改めたという変化が、書いてくる文章に表れたことが一度もありません。
 
以上より、
シャロームは、全く正直ではありません。
シャロームは、キリストを信じていません。
シャロームは、キリストと神の名を、みだりに唱え、利用しているだけです。
シャロームは、
成り立たない捏造妄想教義?を訂正しないかぎり、キリスト信仰を語る資格はありません。
にもかかわらず、今もキリスト者のつもりで発言するという偽善者です。
シャロームが伝道?することを許し、それを皆が真に受けるなら、恐ろしく我がままで無責任で怠け者ばかりの地獄になるでしょう。
 
神自ら決着をつけられる時が来るでしょう。
 
 
(2018年12月29日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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