謎解き?
 
 
現実において超常が起こることを期待して
超常からのメッセージとして
聖書を読むというより解読しようとしている人はいるだろう。
 
しかしそれは人を生かさない。
信仰は謎解きではないので
興味本位は、どこまで行っても興味本位であり、
真実の信仰の求め方としては
的外れであることを自覚したほうがよい。
 
信仰だと思って
神を人の想像で決めつけることは
絶対の神を
絶対ではない人が決めつけることであり
神に対する冒涜であり
神に従う態度の正反対である。
 
そして神から離れた者が
信仰のつもりで神聖の言葉を並べるときには
神聖についての勝手な想像を
口から心に次から次に神としてしまうために
その者は
語るたびに自らの想像を崇めることになり
神から離れてゆき、自らの心を制御できなくなり
気づかぬうちに心が乱れ暴走し
自他を破壊することになる。
 
 
「イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである」(マタイ9:20-21)
 
「胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』」(ルカ18:13)
 
「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(マタイ15:27)
 
救われる人は、神と取引をして、結果の保証をありがたがる人ではなく、
キリスト以外に頼るところがなく、キリストに愛された人間として、
できることをし、精いっぱいの正直な告白をして、成長してゆく人なのです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間として誠実を尽くすべきなのに、神の国を知っている分かっていると言いたくて、謎解きのように暗号解読のように、また条文のように聖書を読み、神の国はどこ?、そして終末はいつ?、などと、真顔で詮索して面白がる者たちを、キリストは戒めている。
 
 
※ 
 
シャロームは、錯乱しているのでしょうか。よく分かりませんが、
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
でのコメント欄を記事にしているようです。
記事にした目的も意図も書いてありません。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839871.html
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839875.html
 
いずれも既に、私もコメントを書き、私が批判記事として載せているので、
今さら、特に私から書き加えることはありませんが、
シャロームを批判する私の厳しいコメントを出したら、読者が同情して
シャロームの味方をしてくれると思っているのでしょうか。
 
錯乱した偽善者でペテン師で、一度も非を認めず、一度も罪を認めず、いやらしく全てを批判者のせいにして、批判者をカルト扱いして、自分は反省も悔い改めもしようとしないで、嘘を吐き、批判者を嘲笑い、自分の絶対正義を信じ込んで訂正不能になっている自分信仰者、シャロームを見てください。といっても、中身は、私の記事に書いたことと、殆ど同じだと思います。私は、今さら読む気にはなれません。
 
それと、念のために申し上げますが、シャロームを赦さないと私が書いているところがあるかもしれません。それは、あくまで私という人間の日常語のレベルです。悔い改めをしない者を赦すことはキリスト教ではありえないことからの理路のつもりです。
 
シャロームを、永遠に、赦すか赦さないか、という裁きは、神のみの権限であります。
 
私は、シャロームによって書かれた記事の詭弁や自分勝手な偏った解釈を、厳しく指摘することに専念してきましたし、これからもそうしてゆくつもりです。
 
 
 なお、上の自由さんのブログのコメント欄には、続きがあります。
  https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
  一部日時省略。一部編集。
 
正直言って、それで、よくカルト批判とかできますね、という感じです。
 
2018/12/27(木) 午後 11:05 st5402jp 返信する
 
 
カルト批判については、自分の場合はその対象はもっぱら幸福の科学ですね。
 
批判の仕方については、以前は教団を厳しく糾弾したり、信者に議論を吹っ掛けたりしてたこともあったけど、
最近はおとなしくなって、かるくツッコミを入れたり、信者との対話を試みるとか、そんな風に変わってきてます。
 
シャロームさんとの挨拶については、
 私は、人との付き合いでは、できるだけ穏和、友好的でありたいと思ってます。前評判はどうあれ、はじめから拒否するようなことはしたくないなと…。
そういうわけで、シャロームさんが普通に接してくるなら、こちらも普通に接することになってます。
 
2018/12/29(土) 午前 8:15 [ 自由 ] 返信する
 
 
>できるだけ穏和、友好的でありたいと
>シャロームさんが普通に接してくるなら、
>こちらも普通に接することになってます
 
私は、それが、決して普通ではない、異常だと、ずっと言っているわけですが・・・無駄のようです
 
自由さんをも批判するようになったのは心苦しいことですが、シャロームの友好的な言葉に、友好的に応じてしまうと、シャロームは、やっぱいこれでいいのだと思って、今までと同じことを繰り返すことに満足してしまうでしょう。
 
もし、自由さんが、シャロームの信仰を是としているのであれば、自由さんはクリスチャンではないのだから無理もないかもしれませんが、そのためでしょうか、シャロームは、このコメント欄を記事にしています。彼の狙いは、私の批判が、いかに辛辣で厳しく残酷か、ということを読者に訴えたいのでしょう。それが功を奏するかどうかについては、私が責任を負います。必要なら、シャロームに対して、改めて反論も批判もします。
 
しかし
 

批判の仕方については、以前は教団を厳しく糾弾したり、信者に議論を吹っ掛けたりしてたこともあったけど、
最近はおとなしくなって、かるくツッコミを入れたり、信者との対話を試みるとか、そんな風に変わってきてます。

 
私が7年闘っているシャロームに対して、この警戒する態度を解いてしまうのは何故でしょう。理路が滅茶苦茶のシャロームに対して、その詭弁の理路を読もうとしないのは何故でしょう。それ以前に、すり込み、煽り、嘘や偽りは、この地上に溢れているのに、まるで、カルトの脅威は去って今は平和、みたいな気持ちになるのは止めてください。脅威は、いちばん厄介な社交の世辞として、目の前にいます。それが偽善の特徴です。
 
記事で批判を続けるつもりでしたが、シャロームがコメント欄を載せているので、私のコメントも実際のコメントであることを示すために、ここにも書くことになっています。
 
宗教や思想に関わる限り、警戒を説くべきではありません。一段落は、次の始まりです。
 
今の時点で、キリスト教についての、すごく浅はかで幼稚なシャロームの詭弁を、警戒もせずに社交のあいさつで受け取れるということは、その方向で、何気なく、詭弁の固定観念を常識として、無意識に、すり込まれつつあるということです。とんでもないことです。シャロームが語り、自由さんが、受け止めていることは、キリスト教でもキリスト信仰でもありません。
 
2018/12/29(土) 午後 5:07 st5402jp 返信する
 
 
(2018年12月30日アップ)
 
崇める(あがめる)
 
 
 
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