いびりのような当てつけ
「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
by 自由
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*アドラー心理学
前に記事にしたことだけども、最近はアドラー心理学サロンさんのツイートをよく見てる。
ちなみに、「いいね」と思ったのは、この辺りのツイートだけど、自分なりの感想をちょこっと書いてみたい。(行間は詰めてコピペ)
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アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。
(ウィキペディアより)
この正当化は、一歩間違えると、自分がいい気持ちになるための処世術になるでしょう。さらに間違って、人生の指針から信じ込みになると、宗教~カルトに似てくるでしょう。
いちばん気楽なのは、人を気にしないことです、ということになると、人との関係で出来ている自分をも気にしなくなります。気楽に、変わり果ててゆく自分に気づかないでいられるのです。これこそ、反省機能を持たないがゆえに崩壊する人間の辿る道でしょう。
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あなただけは、あなたを否定してはいけない。
たとえ、みんながあなたをバカにしても、最後まであなたの味方でいられるのはあなただけです。
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違います。自己否定そのものが不可能に近いほど難しいということです。否定しようと思っても否定できないのが自己であります。ゆえに自己否定も自己批判もやめるなら、無頓着、無反省が付きまということになり、その自覚すらもなくなります。
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自己否定を始めたら、あっという間に人生の迷走が始まる。
「どうせわたしなんて…」と考える価値は無い。
必ず人生は好転する。
https://twitter.com/adler_salon/status/1077899495319302144
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それで人生が好転するという考えの根拠が示されていません。反省まで辞めたら「どうせわたしなんて」どころか、いつも、「どうせ、ひとごと」と、誰の苦言も気にしなくなります。
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これは元気をくれる言葉だ。
自分は、文章を書くときには、ついつい自己検閲して、「これはダメ、これもダメ」などと自分にダメ出ししすぎるところがあるので、この言葉には勇気づけられる。
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元気ではなく、お気楽人生モードが簡単に手に入る言葉です。「これはダメ、これもダメ」にとどまらず、「こいつはダメ、あいつもダメ」と見限って自己満悦に生きる道です。
>気に入らない意見は、無視しましょう。
気に入らない意見が人間を育てます。それを無視したら、自己中心に固まってゆく道しかない。
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人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。
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これは、人間は変わらない、変えることは出来ない、と言ってるようなもの。
人の意見によって影響を受けたことが自らを変えさせるところを無視しています。
自分はどうやって成長するのでしょう。この言は成長を否定する言葉です。
自分が気に入るものだけで成長するという考え方は偽善です。
それに、批判は、批判対象を変える目的だけではなく、当事者以外の読者に警鐘を鳴らすことでもある、ということを前に言ったのですが、忘れているようです。短絡がだんだんひどくなっています。
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他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177
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他人の課題に介入できないと思ったら、まず、交流から、完全に身を引くことです。普通でない人を普通だと見なして、社交の交流をする時点で、すでに責任が生じており、、好意的に関わっている証拠になるのです。
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一応は、どんな意見も聞いておいた方がいいのではないかという気はするが、やたらと難癖をつけてきくるとか、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷…というものは無視するのが正解だろうとは思う。
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やたらと難癖をつけてくるとかいった難癖を、逆に、つけることになっています。
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どうしてもウマが合わず、相性が悪い相手とは、距離を取るしかないというのもよく分かる。
間違っていることをしている人に対しては、きちんと意見してあげるのが親切だという考え方もあるけれども、その者が子供ならともかく、大人であれば、一、二度意見すれば十分だろう。その後どうするかは本人の課題。
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どうするかが本人の課題と言えるのは、一、二度の意見が、あさましいほど軽いものではないことが条件でしょう。短絡と思慮の浅さで、社会通念的な意見を書く人ほど、こういうことを言いたがるものです。偽善者として批判対象としてきたシャロームもそうです。
要するに恣意が勝っていて、好きなようにするから、ほっといてくれ、という状態です。
シャロームは、まさにそうでした。受けない、は、やがて、考えない、に、通じてゆきます。
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ムカつく奴が、頭から離れない?
腹の立つことを言われたり、されても、そんな人のこと考えてはいけません。
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殆ど説教のような口調ですね。批判者を徹底して無視せよ、と言っているに等しく、もはや、批判の域ではなく、真実追求の学問でもなく、嫌悪に基づく防衛機制のようです。
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それでは、その相手の為にあなたの大切な人生の時間を使って、相手の欠点とその改善方法を考えてあげているのと同じです。
あなたの為に時間を使うのです。
https://twitter.com/adler_salon/status/1049234916624326657
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相手の欠点とその攻撃方法を考えているようです。
人の意見を聞かず、受け取りもしなくなるのは、唯我独尊の道です。
だんだん、シャロームとの類似点ばかりが目立ってきています。
そして、知らないことにまで口をはさみ、かつ、人の意見は聞かないと言っているのです。
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嫌いな人、相性の悪い人のことは、ついついあれこれ考えてしまいがちではある。
不毛な議論に時間を費やしてしまうこともありがち。
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このように思考停止を促しているようです。不毛の根拠が示されていません。自分が不毛と思ったら、そこで考えることを止めてしまう心理です。保留するとさえ言えないで、当てつけてくるシャロームに酷似してきています。
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でも、相手方が助言や援助を求めているならともかく、そうではないならば、ああすべき、こうすべきと要らぬ世話をやいても仕方ない。
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相手の意見を聞くことを、いらぬ世話をやくことと見なすのは、これも短絡でしょう。
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そういうことに時間を使うよりは、もっと建設的で、愉快なことに時間を使った方がいい。
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考えないことが建設的だというのでしょうか。考えないで愉快になりたいというのでしょうか。既に、理路の一貫性が失われています。
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こういう考え方は、こすっからいような、けちくさいような気がしないでもないが、自分の人生を第一に考えた場合はもっともな結論とは思う。
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自分の愉快さだけを第一に考える、ということになります。
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失礼な人の相手をしてはいけない。
礼儀もマナーもわきまえないであなたに絡んでくる人に、律儀に対応しても無駄。
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失礼なのは、どちらか。また、自分が律儀であったかどうかについて無反省な人の態度です。
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そんな人に好かれようとすることも、分かり合おうとすることも、無意味な努力。
相手にその気がないなら、あなたも律儀に相手にする必要性が無い。
あなたが消耗するだけですよ。
https://twitter.com/adler_salon/status/1069710993326956545
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好かれようとしていたとは驚いた。そんなこと期待していません。分かり合おうとすることが無意味だというのは、心掛けが足りない自分を考えていない証拠。私は、シャロームによって、ずっと消耗してきたのです。それでも、こだわることで見えてくるものもあるのに、それが嫌で嫌でたまらないと言いたいようです。かなり人に対して、冷淡な切り捨てをする人だと思います。
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ずいぶん前のことだけど、釣り場の挨拶について愚痴った時に、こんなやり取りをしたことがある。
「釣り場では、先行者がいたら、挨拶をしてから、釣りを始めるのがマナーだけど、挨拶しても無視する人も多いんだよなあ。不機嫌オーラを出して無視されるのは面白くないんで、今度から挨拶しないことにすっかな」
「相手が挨拶しないからって、自分が挨拶しなくていい理由にはならんだろ」
たしかに、これは一理ある。たぶん、とりあえずは、こちらはマナー通りに挨拶して、挨拶が返ってきたら通常の対応をとり、無視されたら次からは距離を取るというのが賢明なんだろう。
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驚きます。カルト批判とか、偽善を批判するとか、真実追求につながることを、趣味の釣りに譬えています。こういう安易な譬え方は、シャロームが引用する文献で、嫌というほど見てきました。
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人に執着してはいけません。
信頼していた親友であれ、大好きだった恋人であっても、裏切られたり、関係の維持が難しいなら関係を終わらせましょう。
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人を、好きが嫌いに変わったら、切り捨てて無視して、この記事のように嘲って、悔いない人になりましょう、と呼びかけています。好感が裏切りに変わったら、根こそぎ手を引くか、でなければ、批判するべきなのです。
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親密度が高いと、関係を終わらせることに躊躇してしまうかもしれません。
しかし、これから先の人生、今のまま嫌な気分で過ごすのはもったいない。
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自分が、嫌な気分で過ごしたくない、という安楽欲求から、邪魔な人は切り捨てると言っています。
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https://twitter.com/adler_salon/status/1051367492050857984
これは人情としては、とても難しいことのように思うが、自分の人生を守るためにはやむを得ないことではあるかもしれない。
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自己保存の権化として、人情をも、犠牲にするのでしょう。すっかり、すり込まれ、感化されているのか、もともとなのか、シャロームにそっくりです。言い訳がましく記事にして納得しようとするところも。
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毒親、サイコパスとか、そういった話を聞くと、たとえ肉親であっても、友人であっても、距離をとらなければいけない場合があることはわかる。
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そういう、のっぴきならない話を、他人同士の議論に持ちこんできました。
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問題を抱えている人に対して、自分が支えてあげたいという気持ちになってしまうこともあるが、そういうことは素人には無理だし、最悪の場合は、共倒れになってしまいかねない。
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無理です、または、保留します、とも言わずに、この記事を書いた人が言っています。
今さら、どういう素人自覚なのでしょう。
無理なら、無理だからとシャロームにも言って、最初から関わらないことです。
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やはりそういう相手とは、できるだけ速やかに関係を終わらせるのが賢明ではある。そう簡単には割り切れないかもしれないが、そうしなければ傷付くのは自分だということを忘れてはならないと思う。
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自分だけは傷つきたくない、相手のことは知らない、と言ってしまう心性には、相手が傷つくことに対して、何の配慮も出来ない貧弱な人格が表れています。
途中まで、中立、中庸、スーパーバイザーのような態度を取って、余裕を見せながら、いざ、自分が批判されるとなると、にわかに、心理学という学問の名を持ち出して言い逃れ、しかも、そのことを正当化するとは、まるで、ダイレクトに物が言えない小姑の嫁いびりのような当てつけがましい文章になっています。
理路も批判に耐えるほどには理解できず、情感も浅いところでとどまっているような人は、シャロームの狙いである社交の罠にかかりやすく感化されやすいと言えるでしょう。幸福の科学から脱却しても、幸福の心理学に没入して、保身の権化になってしまうのでは、シャロームの「人それぞれ」身勝手保身と、殆ど現象も心理も変わりがなくなっています。独り言を言って、独りで頷いているイメージです。
シャロームの普通は普通ではなく魂胆です。自覚がないようだが、受け入れ先として存在することで、いわゆる悪を匿う機能として批判の邪魔になるという偽善もありますから、無駄なトラブルを避けるには、シャロームのコメントをスルーすることです。今後も、シャロームのコメントに、社交を返すようなら、また、当てつけ記事を書くようなら、やむを得ず、シャロームと併せて批判することになります。
繰り返しますが、そういう客観性のない自己満足中心の根性なら、HSを抜けた幸いだけにして、畑違いのキリスト教の偽善といった問題には、最初から関わるな、と言いたいのです。
(2018年12月31日アップ、同日一部修正)
(2019年01月02日、一部修正)
権化(ごんげ)
小姑(こじゅうと)
匿う(かくまう)
併せて(あわせて)
頷く(うなずく)
罠(わな)
権化(ごんげ)
小姑(こじゅうと)
匿う(かくまう)
併せて(あわせて)
頷く(うなずく)
罠(わな)
嘲る(あざける)
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