事実と当為
 
 
他者一般については
まず事実を見るべきである。
 
そこで自分を出して
事実と当為を混同しないために。
つまり
現に表れている事実と
こうあるべきという当為を混同しないために。
 
そのように区別することによって
自らの言いたいことについても
事実と当為を
心の中で区別したうえで語るべきである。
 
事実と当為は
分かりやすく言えば
現実と理想とも言えるだろう。
 
事実は現状にあること。
現実、現象、有り様、今の心情、・・など。
 
当為は「べき」の付くこと。
戒め、訓戒、信条、指示、命令、・・など。
「べき」を省略することもあるので
区別するに当たって要注意。
 
結構、私には難しい。
 
「聖書を読む」には、
聖書を読むという事実、
聖書を読んできたという履歴、
聖書を読むべきだという当為、
などが含まれることが多い。
 
「信仰」「救い」
事実ではない。
または、事実とはなっていない。
だが、ある、または、あった、あるべき、が含まれている。
これは、この2つが真であるという当為と、
全部ではないにせよ、救われているという主観的事実がある。
 
哲学は苦手だ。
観念ばかりの文章は読む気がしない。
思考もなかなか進まない。
 
「祈りましょう」
祈りという行為として当為なのだろう。
 
「神様のほうを向いて」
事実ではない。
強いて言うなら当為だが、
はたして当為となりうるか。
「神様のほうを向く」
せいぜい聖書を読み信仰を考え祈ることだろう。
なぜ、まるで神様のいる方向が分かっているような
大仰な言い方をするのだろう。
 
 
 偽善者は、例えば、
 「悔い改めも神によって与えられる恵みなのです」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 と言いました。
 (なんだか、シャロームに都合が良いようにと、
  記事が癌のように増殖拡大しています。尻切れトンボですが。)
 
 気持ちの悪い言説です。
 悔い改めるのは人間です。それが神によって与えられるのなら、
 シャロームは
 神が、人を操って、ロボットみたいに自動的に悔い改めさせる、
 とでも言うのだろうか。気色悪い。
 
 これは、事実ではない。事実として検証されたことがない。
 しかも当為にもなり得ない。ただの非合理であり妄想です。
 これは偽善者が悔い改めないことの正当化に用いた詭弁である。
 
 悔い改めに導かれると言うのなら
 悔い改めたことが書いたものに全く表れていない以上、
 これは事実ではないし、よって、当為としても誤謬である。
 もう一度言うが、
 これは偽善者が悔い改めないことの正当化に用いた詭弁である。
 つまり、キリスト信仰の、事実でもなく、真実でもなく、当為でもない。
 
 
一般的に「これは真実」これは正しさの当為を表す。
これ以外は真実ではないということも当為である。
人間の場合、一度に全てを指し示すことはない。
全ては神のものであり、一度で不変も神のものである。
 
このように信仰を表す言葉には
事実と当為の両方を含んでいる言葉が多い。
 
 偽信仰の、上に述べたような
 事実と当為のどちらでもない詭弁もある。
 
 事実と当為のどちらでもない詭弁は
 事実として偽りであり
 当為として誤謬~真逆であり
 否定される。
 
 偽善は
 事実と当為のどちらにも見せかけようとする。
 そうして悪を善に見せかけて騙そうとする。
 
 
また、偽善の話になってしまったけれど
 
信仰は、悪との闘いというよりも、偽善との闘いと言うべきである。
 
といっても、信仰者の弁えは、
神の前に、精いっぱい正直な祈りを捧げることであり、
行為そのものではない。
 
信仰は、真実の愛への渇望を動機とし、
判断して、実行したことを、祈りのうちに、
少なくとも故意に隠すことなく、反省とともに、神に捧げ、
悔い改めて、導きを乞い、成長する道である。
 
信仰は、判断の一つのあり方として、
主観的個人的事実の評価から当為を見出してゆくのかもしれない。
 
しかし信仰において
事実と当為の両方を含むことが多く、
事実と当為は混同されやすく、
偽善の誘惑は、この、人の言葉の脆弱性をついてくる。
 
 前にも書いたことですが、偽善者は、例えば、
 信仰は論理ではない、という一般的な真実を、人それぞれという言葉を用いて、
 自分の都合の良いように勝手に信じている自分を正当化するのに使ってきます。
 そして
 「イエスさまによる罪の赦しを幼児の幼稚さのように信じる」
 などと言ってきます。
 
 「幼子のように」という聖句は、議論があるようです。
 理屈をこねないで、先入観を持たずに、虚心坦懐に、
 といったような意味で、今のところ、私は受け取っています。
 
 偽善者は、
 この聖句を、自分勝手に、幼稚さのように信じる、と言い換える詭弁です。
 自分は幼稚だと宣言して威張っている?態度でもあります。
 「幼子のように」は、幼稚になれという教えではありません。
 
 シャロームの言は、実に幼稚であります。しかも、それは、
 何の思慮もなく、自分の都合の良いように信じ込んで不変とする自分信仰です。
 そういう一連の詭弁については、コメント欄を記事にしたところに書きましたが、
 記事には書いていないけれど
 シャロームの丁寧語に誑かされたのか「熱い信仰」と評する人もいるわけですから、
 偽善の言葉が、いかに甘い誘惑であるか、いかに良さそうに見せかけるか、
 ゆえに、いかに、いっそう悪質であるか、ということを受け取るべきなのです。
 
 偽善者の言は、反面教師として、反信仰の実例として学習し、
 広く信仰者と求道者に、敷衍されるべき題材です。
 
 
神の導き、キリストの愛によって
明らかになる救いは一度で完成するものではない。
根拠は、人間が不完全であるからという理由以外にはない。
アブラハムも、ダビデも、ペテロも、パウロも、
与えられたのは信仰による義であって、絶対の義ではない。
事実、彼らは、成長することで、祖となり、王となり、使徒となった。
 
信仰によって神の完全になると言うカルトに従ってはいけない。
 
能力の優越を誇り、自分は優れていて相手より上で、
相手は自分より劣る、ということを言って罵ってくるならカルトである。
 
優劣の差を争う時点で既に信仰ではない。
 
優劣を計ろうとする心は
我欲を叶えたくて肉で悟ろうとする者によるところの
事実も当為も捏造するカルト信仰の悪しき所業である。
 
神は、そして、キリストは、
 
捏造と偽善と罵りだけの言論に耐えられないで苦しむ人を、
 
悔い改めて成長してゆく意志のある人間を、支え、救う。
 
 
(2019年01月01日アップ)
 
当為(とうい)
 ≒ 私は、「べき」の付くこと、くらいに思っています。
  「べき」が付かないこともあります。だろう、はずだ、ではないか、なども。
  ときに、だ、である、です、ます、という断定の終止形もあるので要注意。
  事実ではないことですから、未来についての言は、当為になります。
 
当為(とうい)
捏造(ねつぞう)
誑かす(たぶらかす)
敷衍(ふえん)≒広めること
罵る(ののしる)
 
 
 
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