楽山の暴走
 
 「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2
 2021年08月19日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山は、また、恐ろしく長い記事を書いてきました。まとまりがなく、楽山中心に書かれている記事を、いったい、誰が読むのでしょう。URLは、リンクされていません。一連のHSとアンチの論争のようですが、いつのことなのか、2012年とか、2020年とか、分散して一定しません。
 
もちろん、全部引用することはしませんし、これを記事にする目的は、ずっと変わらず、文章に表れる楽山の症状であります。批判されて、現在の問題点から目を離したい楽山の断末魔のようです。
 
両者を比べると、・・相手を名指ししない当てこすり、アテツケばかりだけども、ガン氏はアンチのUMA氏と正面から議論してたので、ここは立派だったと思う。
ただUMA氏から痛いところを突かれてからは議論そっちのけで、UMA氏の通報排除にやっきになってたのはカッコ悪かった。
 
楽山は、まるでレフリーのように、「立派だった」「カッコ悪かった」などと、批評しています。楽山は、そういう立場に立てる人ではありません。批判される側であり、いうなれば、被告と言うべき位置であります。
 
当てつけは、こちらが否定していることを執拗に書いてくる、という、楽山がしばしば書いてきた嫌がらせがあります。またしても、自分のことを書かないで、よくもまあ、平気で人のことを言えると思います。
 
公序良俗に反しない限り、言論は自由です
 
楽山の、こちらの意見を無視して同じことを言う、幼稚な偏見のようなことを重要であるかのように繰り返す、などは、明らかに公序良俗に反して有害です。しかも、妄想のように訂正不能です。節度がない典型が、楽山です。
 
自分の捏造、嘘、ごまかし、偽り、邪悪な心を規制しないで、好きにさせてくれという意味の自由です。
 
こういう自由のすり替えは、楽山の場合、人それぞれとか、自分を貫く、といった言葉を、自己中で、勝手で、迷惑をかけてもいい、という身勝手な自己正当化として使ってくる詭弁となっていました。
 
楽山は、実に、好き勝手に書いてきましたが、どれ一つとっても、単方向の無責任発言では、公開して一般に通用する文章ではなかったのです。
 
具体的には、わたしを含め、わたしの近しい友人は、あなたのブログを一切訪問もしないし、したがって、あなたの記事を今後一切読みません。そういう方向で話をまとめるよう、努力してみようと思っています。
しかれども、そのことはあなた自身も、わたしたちに対して、行なっていただかないといけない。
あなたは今後、わたしのブログを一切訪問してはならず、読むこともしないでいただきたい。わたしの近しい友人のブログも、訪問してはいけないし、記事を読んでもいけない。
 
現在、私は、楽山の3つのブログと、3つのツイッターを、批判のために見ますが、何かの参考にするとか、役立てるとかは、全くありません。楽山の排泄物として観察しているだけです。楽山のHNは、自由、楽山、raku、taka、こも楽山、などです。
 
このように過度に他人の心を自由に支配したいと思うのも、妄想性人格障害の症状です。一度、本当に心療内科に診て貰った方がいいと思います。正常な言動とは思われません。
 
これが当てはまるのは、楽山その人であります。しかも体質的な病的ナルシストなので、妄想性についても、自己愛が勝ってしまって、心療内科でも精神科でも治らないのでしょう。正常な言動に見せかけても、いずれは、バレるのです。
 
他者を障害と決めつけていますが、自らの、とても異常で傍迷惑な、自己愛性パーソナリティ障害NPDという精神病質については、全く、お構いなしなのです。つまり、病識がないということです。楽山の活動は、殆ど、不治で経過する病の暴走であります。
 
ついでに書くと、レオ氏による楽山批判のデタラメぶりはこちらで指摘している。最近の例といっても、もう一年前のことだけど。
一般的にいって人は誰しも間違うものである。少々の勘違い、記憶違いがあったからといって責めても仕方がない。でもこれだけ事実誤認が重なると、もはやデタラメだらけとしか言いようがない。
 
楽山のデタラメぶりは、公序良俗に反しますし、読解や事実誤認や常識の歪曲も著しく、到底「誰しも間違うもの」で、済ませられるものではありません。理路も、共感も、ぶっ壊すような恣意の捏造の代物なのです。
 
さらに、楽山は、間違いを自覚できないし、自覚しようともしません。自己愛病質による訂正不能と無反省の症状です。嫌らしいのは、自分が言われそうなことを、他者に当てはめて、言い逃れをしてくるところです。
 
コウ氏の発言の根拠を求めると、それに概ね合致する事実は見つかったが、ガンレオ氏らの発言の根拠を求めたると、それとは正反対の事実がちょくちょく見つかったということ。
コウ氏の間違いは「そう受け取るのも仕方ないな」と思えるものが多いが、ガンレオ氏の間違いは「なんでそんな正反対の受け取り方をするの?」というものが多のだ。
私がガンレオ氏らに批判的な理由の一つがこれである。コウ氏にも迂闊なところはあるけど、ガンレオ氏らの歪曲捏造はそれ以上に酷いじゃないかと。
 
楽山は、このように、まるで仲裁でもしているかのように、枝葉末節の屁理屈をこねて、論理的に見せかけていますが、こういう手法は、楽山が、焦点をぼかして、責任を不明確にするための、詭弁として、よく使っていたやり方です。楽山に、他者のことを、とやかく言う資格はありません。
 
というわけで、こういうことを目撃してきた私は、コウ氏に同情的になり、ガンレオ氏らに厳しくならざるを得ないということである。
「コウさんは正義で、ガンレオさんらは邪悪だ」なんて言おうとは思わないが、ガンレオ氏らはコウ氏を不当に貶めているところはあるし、自分らでいうほど正義ではなかろとは思う。
コウ氏の迂闊な間違いを、迂闊な間違いだと注意し、迂闊なのはお互い様だと慰めるならともかく、意図的な嘘だ、邪悪だと決めつけ、裁き、貶めるなら、それは正義というよりも、相手の事情を思いやることのない自己中心ゆえの過ちといえるのではなかろうか。
 
楽山は、また、自分が言われそうなことを、他者に当てはめています。とても、悪質だと思います。今まで、ずっと、こういうことばかりでした。それで、まともな論者を気取ってきたのです。他者を批評・批判するけれど、自分を見ることだけはしない楽山です。
 
いちばん、正義から外れ、いちばん、邪悪なのは、楽山です。人の知性と意欲と感性を疲弊せしめ、感情を乱して異常な疲労をもたらし、傷つけて、人格を破壊してきたのが、楽山です。何を、気遣いみたいな説教を垂れているのでしょう。呆れます。
 
まともな理路ではなく「相手の事情を思いやることのない自己中心」は、まさに、楽山の体質的に得意とする攻撃方法であります。罵詈雑言よりも、相手が疲れて弱るような言い方を、楽山は心得ているのです。決して、楽山を相手にしてはいけません。楽山は、人格破壊の伝染病です。
 
 
悪意・悪質・悪筆、多量分散

悪意・悪質・悪筆、多量分散
 
 
(2021年08月21日)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
 
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
 
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
 
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
 
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
 
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
 
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
 
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
 
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
(90年代か)
 
 
 
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