聖句引用の落とし穴
 
   神の賜物と罪の報酬
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28853472.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが他者の記事を引用あるいは転載して、その記事が妥当なものであれば、シャロームが、いかに、背いているかが明らかになるでしょう。妥当でないか、恣意的な引用、または、シャロームが書いた記事なら、そこに表れているシャロームの言葉や主張が批判対象となるでしょう。批判する側に、神を恐れる姿勢があればよいのです。さて、
 
偽善者が聖句を引用する場合、自分に都合の良い話ばかりを引用する、という例となるような、シャロームの記事です。こう書いてある、こう書いてある、と強調して、自分と同じように受け取ることを勧め、きれいごとばかりを書いてくるのです。こういうことを繰り返しながら、恥じるという感性を持たないので、悔い改めもしないのが、シャロームであります。
 
 
>「あなたは私から実を得るのだ。」(旧約・ホセア書14章8節)
 
 (ホセア書、口語訳)
14:8
エフライムよ、
わたしは偶像となんの係わりがあろうか。
あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。
わたしは緑のいとすぎのようだ。
あなたはわたしから実を得る。
14:9
知恵のある者はだれか。
その人にこれらのことを悟らせよ。
悟りある者はだれか。
その人にこれらのことを知らせよ。
主の道は直く、
正しき者はこれを歩む。
しかし罪びとはこれにつまずく。
 (ホセア14:8-9、旧約聖書)
 
エフライムはイスラエルの部族の一つです。
9節を見れば、罪人のつまずきが書いてあります。
 

実は植物の実ばかりではなく、人の働きを通して与えられます。
時に人の働きによって結ぶ実には甘いものだけではなく苦いものもあるようです。
人が生ける神に対する信仰による畏れと信頼、感謝によって生きているなら
その結び実は神の祝福であり、人の心の喜びです。

 
信仰のもたらす結果が、直ぐに分かるような書き方をしていますが、シャロームは、全てが自分に分かるような利益となると信じているからです。
 
実際には、一見、苦い実りに見えるものが、のちに、幸いとなるか、あるいは、試練の克服として、生きてくることを、シャロームは、書いていません。善を誉め、悪を避ける、という判断を即座に短絡的に行い、結局、いいことばかり書くことになります。深い情緒の欠けているところには、こういうことが目立ってきます。
 

私たちは働きの実として多くのものを持っています。
それは私たちの心の喜びとなっているでしょうか。
実は神の恵みによって結ぶ実はその人が生ける神とつながっていることなしには
実を結ぶことはできません。

 
ですから、シャロームは、全てが喜びとなるものだという信仰です。戒める神や、懲らしめる神を、信じておらず、自分が神とつながっているとばかり、背く自分を全く考えず、ありがたいことばかりを言って、人を誘ってきます。それこそが、さらなる背きなのですが。
 
 
>聖書には次のような言葉があります。
 

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、
また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、
それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
(新約・ヘブル人への手紙12章15節)

 
自分が、苦い根であることにも、苦い根から生えて出ていることにも、気づかない人は、人を悩ましても、人をけがしても、罪の自覚がなく、同じことを繰り返します。その悪と偽善の積み重ねを指摘しても、理解も反応もしません。反省することが無いので、いつまでも、自分を、善き伝道者だと思い込み、そう思わせるようなことだけを、手段を選ばずに、書いてくるのです。
 
多くの人が汚されることのないようにするべきです。上の聖句の続きですが
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
12:16
また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17
あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
 (へブル12:16-17、新約聖書)
 
俗悪で、祝福だけを願い、悔い改めなかったエサウのことが書かれています。
シャロームは、悔い改める必要を書きながら、一方で、悔い改めの機会を拒否し続けている人です。この矛盾が、何度も何度も噴き出してきたのに、なおも悔い改めないのは、神を信じていないから、と思うしかありません。
 

神学校の庭に一本のぶどうの木がありました。
手入れする人もないのかまるで枯れ木のように見えました。
そんなぶどうの木に誰も心にとめる人もありませんでした。
ある時神学校に入学されたひとりの人がその木を見て手入れを始められました。
枯れた枝を切り落とし、木のなかの腐れを掻き出し、
びっくりしましたが火で虫を駆除し、根元を掘り起こし、肥料を施されました。
するとそのぶどうの木は生気を取り戻し、葉を茂らせ、
小さなぶどうの実を結び始めました。

 
現実味を持たせようとしたのでしょうか、実際のブドウの木のことを語っています。少しでも詳しく語ろうとすると、こういうことしか、思い浮かばないのでしょう。
 
虫を駆除し、肥料を施す、という畑の手入れを語っていますが、この話の、信仰についての具体的な中身の話が無いのです。つまり、よいことをしましょう、と言っているだけになります。
 
>イエスは次のように話されました。
 

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
(新約・ヨハネによる福音書15章1~2節)

 
聖書でブドウの木が語られるのは、信仰についての比喩としてです。比喩として受け取っても、それが何を告げているかを、悔い改めの体験のないシャロームには、説明するすべがないのです。だから、あとは、美辞麗句の聖書語と讃美言葉を並べるだけ、ということが続いてきました。
 
自分が取り除かれる枝にならないためには、神に対する誠実さが必須であり、その誠実と正直をもって、悔い改めたという事実があれば、書くものに表れるはずですが、今まで、シャロームの書いたものの、どこにも表れてはいません。
 
>また預言者イザヤは次のように語っています。
 

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、
その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、
甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
ところが、酸いぶどうができてしまった。
(旧約・イザヤ書3章1~2節)

 
イザヤ書の3章ではなく、5章のようです。
酸いブドウの続きがあるのに、シャロームは、書いていません。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:3
それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、
どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。
5:4
わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、
何かなすべきことがあるか。
わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、
どうして野ぶどうを結んだのか。
5:5
それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、
あなたがたに告げる。
わたしはそのまがきを取り去って、
食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、
踏み荒されるにまかせる。
 (イザヤ5:3-5、旧約聖書)
 
めでたく有り難い話ばかり書きたがるシャロームとしては、3~5節の、懲らしめる神を書かないのでしょう。恣意的な、片落ち、と言うべきです。
 

このイザヤの言葉は御自分の民イスラエルの対する嘆きの言葉であると共に、
生け神によって創造された被造物を治め、その収穫の喜びに与り、
神へ感謝と礼拝をささげて生きるように創られた人に対する言葉でもあります。
この現実は人が生ける神の言葉を退け、
その心に苦い根がはびこった“結実”なのです。

 
他人事の悪者に対するように、神の言葉を退け、苦い根が蔓延った結実、と言っています。
キリスト者は、罪についての話を、同じ罪人として、自分のこととして受け取って、戒めとするはずですが、シャロームは、自分に対する戒めとして受け取っていないのです。まるで、こうならないように気をつけよと、預言者が垂れるような、傲慢の”結実”です。
 
どこまでも、シャロームは、教える立場に立っているつもりだけで、罪人として共感する情緒も共有する思想も持っていません。ずっとそうなのです。
 
>創世記には次のように記されています。
 

更に人に言われた、
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、
わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、
/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
/あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
(旧約・創世記3章17~19節)

 
>しかし、使徒パウロは次のように私たちに語りかけています。
 

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、
聖なる生活の実を結んでいます。
 行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
(新約・ローマ人への手紙6章20~23節)

 
シャロームが言いたいのは、
アダムとエバは、ちりに帰る存在だが、
今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいる、だから、永遠の命に行き着くと、聖書語を並べて言っています。これは、他でもない、シャローム自身がそうなっている、という、自分のことなのです。シャロームは、反省せず、悔い改めないで言っていることを強調しておきます。
 
一見、救いを書いているように見えるところが、シャロームの偽善者たるゆえんです。こういう話し方だけを、彼のソーシャルスキル、すなわち、信仰の騙し文句として身につけてきたのだと思います。
 
悔い改め、赦し、救い、導き、とは何か、ということに一切答えていません。考えた跡もありません。何故なら、シャロームにおいては、すべて、完成しているつもりだからです。だから、どんなに嘘を吐いても、どんなに卑怯な作為で書いても、悔い改めないのです。
 
シャロームにとって、信仰とは、自分の救いの完成の、おすそ分け?に過ぎないのです。
 
神の前に、人の前にも、立派なことを言おうとして、讃美言葉を並べるのが、シャロームの信仰?の特徴ですが、神の前に、飾ることは無意味であり、神の前に、隠すこと、偽ること、悔い改めないことは、反信仰であります。
 
キリスト者は、シャロームのそんなもの、必要としないし、あまりにも安っぽいシャロームの、書くもの、語るもの、シャロームの言葉の策略や詭弁など、一切、受け取ってはいけません。
 
シャロームの活動は、信仰の妨げです。シャロームは、信仰の邪魔です。美味しい言葉を並べるシャロームは、偽善者であり、信仰の害毒です。
 
キリスト者は、真剣に考え、判断し、反省し、祈り、精いっぱいの正直をもって、悔い改め、導きを乞いながら、キリストのもとで生きています。
 
 
(2019年01月09日アップ、同日一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
 
 
 
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